小松平五郎の足跡探訪 ~「NHKに戦時中の楽譜」の報に接して~/小林義人
慶応大学経済学部在学中、ワグネルソサイテーの指揮。
1928年(昭和3)「国民交響楽団」を創設(編者注・実際の設立は1927年12月で、翌年2月に第1回演奏会)。パドマ合唱団、立教大学交響楽団の創設にも参画し、指揮を行うとともに、帝国美術大学、日大等で音楽を教える。
大日本作曲家協会、大日本音楽協会理事を歴任。
戦時中、郷里に疎開し、玉(とう)米(まい)村助役となる。
地元のために「ハタハタ音頭」「由利小唄」「舘合小学校校歌」などを作曲。
歌手・淡谷のり子の「マドロス小唄」などを数多く作曲した。
(小松耕輔WEB音楽堂)
◇ ◇ ◇
小松 平五郎 (こまつ へいごろう)
出身地 由利本荘市(旧東由利町) 1896年(明治29年)~1953年(昭和28年)
国民交響楽団をはじめ各交響楽団、合唱団を指揮する。歌手淡谷のり子のデビュー曲「マドロス小唄 」など歌謡曲 、校歌、童謡など作曲多数。1953年冬季国体の大会歌が遺作。著書に『音楽百科辞典』などがある。
<年譜>
1896年 由利本荘市(旧東由利町)に生まれる。慶応義塾大学経済学部中退。
1927年 国民交響楽団を主宰して指揮者となる。
1928年 日本民謡協会の発足に参加。
1929年 帝国美術学校講師。
1931年 『音楽の知識』を刊行。
1945年 郷里に疎開する。玉(とう)米(まい)村助役。
19471947年 日本大学講師。日本大学交響楽団、 立教大学交響楽団、仙台交響楽団を指揮。
1953年 東京都で没。56歳
(秋田県立博物館「秋田の先覚者一覧」)
※小松平五郎の作品一覧は『小松耕輔WEB音楽堂』の「小松音楽兄弟」の項に掲載
はじめに
【NHKに戦時中の楽譜】
「NHKに、小松平五郎氏が1941年12月に作曲された『若人の歌』の楽譜が所蔵されていることを確認いたしました」
うれしい知らせが飛び込んで来た。東由利が夏ゼミの輪唱でにぎやかな7月22日。東京のNHK放送文化研究所から、小松耕輔音楽兄弟顕彰会へ一報が寄せられた。早速、平五郎の作品80曲一覧(校歌を除く)をくくってみたが、『若人の歌』というタイトルは見当たらない。記憶にも記録にも残らない、未知の楽曲であった。
同研究所の月刊誌「放送研究と調査」2025年12月号によると、NHK放送センターのアーカイブスから「戦時楽曲資料」と書かれた保管袋が見つかり、計253の楽譜が確認されたという。そのひとつが平五郎の『若人の歌』。戦中、戦後の混乱期を経て85年間、保管庫の片隅でじっと息をひそめていた。
同誌「2026年8-9月号」によると、1941年(昭和16)12月8日の開戦を機に、日本放送協会が「大東亜戦争行進曲集」の作曲を中堅作曲家30人に依頼した。そのひとりが小松平五郎だったという。この時45歳。楽譜には本人の字で「昭和十六年十二月二十九日朝 天気晴朗 マニラの陥落近し」と書かれていた。放送日時は特定されていない。続報を待ちたい。
《作曲と指揮》
見つかった楽譜は、近代音楽の裏面史の貴重な生き証人である。せっかくの機会だ。小松平五郎の記憶と記録を訪ねた。冒頭の略歴は小松耕輔音楽兄弟顕彰会監修の「小松耕輔WEB音楽堂」(制作・由利本荘市)と、秋田県立博物館の常設展示「秋田の先覚者」から引いた。
平五郎は小松音楽4兄弟(耕輔、三樹三、平五郎、清)の3番目。西洋音楽の理解と普及に尽くし、明治、大正、昭和の音楽界を牽引したのが、長兄の小松耕輔だ。3人の弟たちは兄の功績と名声の陰に隠れて、印象の薄さは否めない。しかし、それぞれにいい仕事をし、有為な人生を送った。
平五郎は生涯、野(や)にあって、作曲と指揮を仕事とした。市民オーケストラの先駆けとなる「国民交響管弦楽団」を旗揚げし、ライフワークとした音楽用語研究の集大成「音楽百科辞典」を世に残した。本稿では(1)音楽家としての歩み、(2)ふるさと東由利、(3)家族の絆―の3つの観点から、小松平五郎が駆け抜けた56年の春夏秋冬を振り返る。
<第1章>音楽家としての歩み
【慶応ワグネル】
小松平五郎は1896年(明治29)4月20日、秋田県玉米村(現由利本荘市東由利)に生まれた。地元の舘合尋常高等小学校から東京の京華中学校へ。次いで慶応義塾大学理財科(後の経済学部)へ進んだ。学業の傍ら、音楽に傾倒。在学中から学生音楽団体・慶応義塾ワグネル・ソサイエティーの指揮を執る。2年後に大学を中退し、亡命ポーランド人ルビエンスキーに作曲を学んだ。
慶応ワグネルの主催で「小松平五郎氏作品発表演奏会」が開かれたのは、大学中退から10年後。1925年(大正14)11月28日の夜である。平五郎29歳。指揮棒を手に、満を持してのデビューだった。弱冠21歳の新進声楽家・関屋敏子(1904~1941)が賛助出演している。
演奏会のプログラムは次の通り。
三田山上に生れたる
我が作曲界の鬼才
小松平五郎氏
作品發表演奏會
―賛助出演―
コロラテユラソプラノ
関屋敏子嬢
自作の歌曲数種を發表さる
主催 慶應義塾ワグネルソサイエテイー
於 芝區三田通り慶應義塾大ホール
十一月二十八日(土曜)午後七時
―演奏曲目―
小松平五郎作曲
歌曲=死、星の飛ぶ夜は、うしろ姿、子守歌、馬子唄、
君がみ胸に、涙、牧場の月、發見、爆發
ピアノ曲=開かぬ鐡扉、神々の失望
フルート曲=祭り
歌詞なき聲樂曲
関屋敏子作曲
歌曲=はまうた他三曲
プログラムの挨拶文で、主催者は「作曲界の鬼才として名を挙げた小松平五郎氏は、実に我が慶応義塾理財科より生まれた作曲家である」と紹介。実兄が小松耕輔であることや、慶応を中退して音楽家に転じた経緯、楽曲の作風などに触れている。一部省略して引用する。
小松平五郎氏
昨十三年春、傑作スイムフォニックポーエム「快走船と海魔」及舞踊曲オーケストラ「蛇身獻離」を發表、自ら指揮演奏して一躍作曲界の鬼才として名を擧げた小松平五郎氏は、我が慶應義塾理財科より生れた作曲家である。
樂界の重鎮小松耕輔氏の令弟にて、中學時代より作曲に志したるも、慶應義塾理財科に進んだ。卒業の間近に身を引いて作曲に專念に至る道程には、實に幾多の涙多き物語を有する。
最近は作風に著しい變化を來たし、未來派的色彩の濃厚なるものあり、此の種の作曲家としては實に日本唯一の人である。「私の心の妻はオーケストラだ」と云ふ氏は、歌曲の作品を多くは持たないが、それでも二十数曲を數ふるに至る。本演奏會では、 此の中より十数曲を選び、他にフルート曲、ピアノ曲等を發表する。
今後、氏は引き続き、ピアノ曲の演奏會と、オーケストラ曲の演奏會とを開催する筈である。好樂家諸子の御後援を乞ふ。
【小松耕輔と歌姫】
プログラムにあるように、平五郎の長兄が小松耕輔(1884~1966)だ。弟の発表会を、耕輔は日記風の自伝の前編「音楽の花ひらく頃」(1952年刊)につづる。
「十一月二十八日には、舎弟平五郎の作品発表演奏会が、関屋敏子嬢の賛助出演で、慶応義塾大ホールで開かれた。曲目は平五郎作曲の歌曲十曲、歌詞なき声楽曲、ピアノ曲、ピアノ・ハルモニウム合奏曲等で、関屋嬢は自作の歌曲『ばら』『はまうた』等を歌った」
関屋敏子は若手ソプラノ歌手として活躍する一方、和声学と作曲を耕輔に師事。当夜の曲目は、耕輔の指導を受けて作曲したものだ。伝説の歌姫の賛助出演は、兄が弟に送った熱いエールであった。
関屋はその後、イタリアに留学。プリマドンナとして国内外に活躍の場を広げるも、1931年(昭和16)11月23日、37歳の若さで自ら命を断つ。耕輔は新聞で訃報を知り、関屋宅へ駆け付ける。
「生前の美しい彼女の顔を思い出すと、涙がとまらなかった。(中略)この悲劇にはわれわれの到底知ることの出来ない事情があったのかもしれない」(小松耕輔著「懐かしのメロディー」)
関屋が生前、吹き込んだ平五郎作詞作曲の「馬子唄」が、YouTubeで聴くことが出来る。
【国民交響管弦楽団】
慶応ワグネルの発表会から2年後の1927年(昭和2)12月、小松平五郎は在野のオーケストラ「国民交響管弦楽団」を設立する。市民楽団の先駆けだ。官の援助を一切受けない、草の根の音楽活動。人も金も自分で走り回って工面した。
設立記念の第1回演奏会は翌年の2月19日。兄耕輔の自伝の後編「わが思い出の楽壇」(1961年刊)に、平五郎の設立趣意書が紹介されている。
設立の目的は「作曲家には作品を発表出来る場を」「オーケストラには演奏を公開できる場を」「一般の人たちには安い料金で演奏を聴ける場を」の3点に集約されよう。草莽の音楽家・小松平五郎の率直な思いが伝わる。少々長いが、引用する。
私たちは自分達の柄にもなく、交響管弦楽団を作りました。音楽は今まで一部特殊階級の占有娯楽機関となりがちであった。これを避けるため、つまり一般国民のための音楽団体たらしめたいために、名称も国民交響管弦楽団といたしました。
西洋音楽が日本に渡来して五十年だが、オーケストラ音楽は発達が遅れた。作曲方面に至ってはお話になりません。第一に作曲のいい教師がいない、第二に発表するに都合よき演奏団体がなかった、第三に発表するに多大の費用を要する、等が主なる原因ではなかろうかと思います。
作曲家は最もたやすく自分の作品を発表しうる機関を持つことが必要です。一般人士は最も低廉にオーケストラをきくことのできる機関をもたねばなりません。
私は今までオーケストラの曲を数度、発表しましたが、そのたびに如何に苦しんだことでしょう。如何に経済的打撃を受けたことでしょう。私の今までの苦しみにかんがみ、われわれ有志のものが相図って、最も低廉に、最もたやすくオーケストラの作品を発表し、一般に公開する機関を作りたいと思って作ったのが、この度のわれわれの楽団であります。
分かりやすい文章だ。
早稲田や慶応の学生を中心に総勢75人の団員が集まる。第1回演奏会の曲目は、ハイドンの「ト長調交響曲」、シューベルトの「未完成交響曲」、モーツアルトの「序曲・劇場支配人」。この時代としては、「新交響楽団」(NHK交響楽団の前身)に次ぐ、実力派オーケストラと言えた。
東京朝日は「近衛氏の新響(中略)、内田元氏の東京シンフォニー、小松平五郎氏の国民交響楽団も、種々の機会に飛躍しようと英気を養って猛練中」(昭和3年9月21日)と好意的に紹介。兄耕輔は自伝後編に「新交響楽団に続いて国民交響楽団が活躍した。指揮者は小松平五郎であった」(昭和5年12月)と、誇らしげに書き残している。
平五郎はその後も地道に定期演奏会や作品発表会を重ね、古関裕而ら日本人の楽曲にも演奏の光を当てた。音楽への理解と共感が未だ熟していない時代にあって、太平洋戦争開戦の1941年まで、14年の長きにわたって屋台骨を支え、指揮棒を握り続けたのである。
国民交響管弦楽団は、平五郎が日本の近代音楽史に残した、誰もが認める大きな功績だ。風に向かって苦節に耐えるだけの覚悟と情熱と才能が、この音楽家にはあったということだろう。
【国民音楽協会】
「国民交響管弦楽団」の設立よりひと月早い1927年(昭和2)11月、兄の小松耕輔は「国民音楽協会」を旗揚げする。「音楽の裾野を一般大衆に広げたい」というライフワークのスタートである。
連動する形で始まったのが合唱コンクールだ。人々の暮らしと心を、合唱で楽しく、豊かにしよう。留学先のフランスから直輸入した音楽の社会化運動、啓蒙運動である。
協会理事長として楽壇のトップに就いた兄を、弟の平五郎と同じく弟の清(1899~1975)が理事として支えた。
国民音楽協会は翌1928年(昭和3)4月25日、「ドビュッシー十年祭音楽会」を開催する。小松耕輔、平五郎、清の3兄弟の名前が並ぶ貴重なポスターが残っている。
2023年12月の「日仏芸術交流シンポジウム」で、船山信子・元上野学園大学学長が紹介した。ポスターには、主催者挨拶に「小松耕輔」、出演者に「小松平五郎」「小松清」の名がある。平五郎は自ら率いる「国民交響管弦楽団」を指揮し、清はドビュッシーのピアノ・ソナタを弾いた。
【清の作品を指揮】
清は平五郎より3つ下。幼少より俊秀の誉れ高く、東京大学を卒業して、フランス文学と西洋音楽の両道を究め、後に東大や東京藝術大学の教授を務めた。日本作詞作曲協会長、ユネスコ国内委員などを歴任。
清が作曲した舞踊劇「トメリー物語」の初演(1931年11月8日)を指揮したのが平五郎である。兄弟は互いに協力し合い、刺激し合って、楽壇の階段を上り始める。北原白秋の詩に曲を付けた平五郎の「郷愁」は、兄耕輔の「芭蕉」、弟清の「朧夜」と並んで、「新日本歌謡二十六曲」(声楽家・永井郁子選)に選ばれている。
小松音楽4兄弟のもうひとりの三樹三(みきぞう)(1890~1921)はこの時、既に亡い。三樹三については後で触れる。
【女流音楽家を批評】
音楽に対する向き合い方を語った小松平五郎の新聞寄稿がある。1924年(大正13)6月5日付東京朝日の学芸欄。「松島氏の作品を聴く」との音楽評論だ。400字詰め原稿用紙で5枚半。記事面の半分を占める長文で、「音楽には今を生きる人々の共感がなくてはならない」との持説を説いた上で、作品を批評のまな板に載せる。一部引用する。(※巻末資料に全文)
音楽は其の内容に現代人の喜び、悩み、悲しみ、ユーモア等、凡て現代人の生活がなくてはならぬ。若しこれらの要素が含まれていないならば、吾々現代人には何等の価値もない。即ち吾人の生活とは全く没交渉と云わねばならぬ。現代人には何等の感動も共鳴をも与えぬ単なる和声学的音(おん)の配列に過ぎない。
松島氏の(一)弦楽四重奏と(ニ)洋琴奏鳴曲は、現代人には程遠い。何等の共鳴も感動も受けない。作曲の為の作曲で、心の要求より生まれたものではない。形式音楽の形骸に過ぎないのである。
どんなに日本の音楽の発達が遅れてゐるにしても、ハイドン、モツアルトの時代が遠い遠い昔に過ぎ去った事は確かだ。彼等は吾々の祖先ではあるが、吾々の時代の人ではない。彼等の音楽は和声学の教科書ではあるが、吾々現代人の要求する音楽ではない。
(三)のセロ獨奏曲甲(諧謔曲)と乙(幻想曲)は、複雑な生活を持ってゐる現代人の諧謔でも、幻想でもない。「私の有する諧謔であり幻想である」と云はれるならば、松島氏は現代人の生活とかけはなれた、あまりに上品すぎる貴族的な諧謔の所有者であり、あまりに浅い幻想の所有者である事になる。
(六)の五ツの獨唱曲を聞いて、初めて私は松島氏の本当のものに突き当たった気がした。現代人の女性も此の獨唱には幾分かの共鳴を持つ事であらう。松島氏の本当の天分がよく表わされてゐる。
現代人に取って在来の和声はあまりに砂糖と塩である。砂糖と塩はあまりに単一無味乾燥である。吾人の生活が複雑になればなる程、味覚に於いて砂糖塩以外に非常に複雑な、味わえば味わう程味の出るものを要求する如く、音楽に於いても然りである。
今の世に生くる作曲家は、在来の和声学にのみ囚われてはならぬ。今の世の人々の為に作曲してほしい。
最後に私は、作品の価値如何を別問題として、作曲に對する松島氏の熱心なる努力に敬意を表する。
【帝国ホテルの格】
「松島氏」とは、女流作曲家の先駆けとされる松島彜(つね)(1890~1985)だ。「〽おうまのおやこはなかよしこよし・・・作詞・林柳波)の童謡「おうま」の作曲で知られる。東京音楽学校(現東京藝術大)では小松耕輔の後輩に当たり、耕輔は学習院、松島は女子学習院で教授を務めた。作品発表演奏会は5月31日の夜である。楽壇の期待の高さは、用意された会場に一目瞭然。 格付けが他を圧倒する帝国ホテルのオーディトリウム(演芸場)であった。完成してまだ1年。吹き抜けの音楽ホールが、来場者の度肝を抜いた。
しかし、平五郎は意に介さない。臆さない。
松島が作曲した室内楽や独奏曲への評は「何等の共鳴も感動も受けない」「形式音楽の形骸に過ぎない」等々、ダメ出しの連続。まるで遠慮がない。その分、歯切れがいい。途中にはさむ音楽論も、比喩がユニークで飽きさせない。
独唱曲の段になってようやく及第点を与えたが、松島には気の毒な思いがしなくもない。しかし、辛辣な評論も、機知やユーモアで蒸留されれば、上質なエッセーに変わる。34歳の才媛は、ほろ苦さを鷹揚に飲み込んで、恨みはしなかったに違いない。ピアノ曲、歌曲など、生涯で1000曲を残した。
【兄弟で音楽評論】
この時、平五郎28歳。冒頭の「慶応ワグネル」演奏会でメジャーデビューする1年前だ。朝日の学芸部長は土岐善麿(1885~1980)。初代部長の漱石同様、学芸欄に小松耕輔を起用し、今度は弟の平五郎に執筆の機会を与えた。新進音楽家の度胸の良さと斬新な着眼、深い洞察力に、天下の朝日も一目置いた。
松島の発表会は、弟と一緒に耕輔も聴いた。ピアノのパウル・ショルツ、チェロの伊達三郎、ソプラノの永井郁子など、そうそうたる出演者の紹介も含め、当夜の模様を自伝前編「音楽の花ひらく頃」につづる。しかし、こちらははるかに大人の対応だ。作品の出来栄えには一切、触れず、作曲に対する松島の姿勢と努力をひたすら褒めた。
「作曲といえばほとんど小品にのみ限られていた当時の作曲界において、しかも女性の身で堂々と本格的作曲に精進する松島氏の努力と気迫は、まことに敬服に値するものといわなければならない。非常な盛会であった。非常に嬉しくかつ気持ちのよいことであった」(大正13年6月の日記)
官の兄、民の弟。処世の違いがこんなところにも。
半年後、耕輔は同じ朝日の学芸欄に、ベートーヴェンの「第九」本邦初演の評論を寄せる。
【音楽百科辞典】
小松平五郎は作曲者、指揮者であると同時に、音楽学者でもある。日大芸術科や帝国音楽学校、帝国美術大学、旧制日大二中などで教鞭を執った。
多くの著書や訳書がある。代表作が戦後の1950年(昭和25)11月に出版した「音楽百科辞典」。時代の潮流を見通しながら、ジャズも含めた音楽用語を、アルファベット順に解説。英、仏、独、伊、露からギリシャ語、ラテン語に至るまで、多彩な用語であふれた。
序文に思いの一端を記す。
「音楽辞典は私の一生の仕事として大正十二年に稿を起こした。爾来二十五年の間に数回の推敲を重ね、編者としてはやや満足のものを作り得たつもりである。編纂にあたり、現代音楽ならびにジャズ音楽用語の集録解説に非常な努力を払った。特にジャズ用語については欧米の辞書にもいまだ見ざるところで、一般用語の豊富とともに、本辞典最大の特色として誇り得る」
辞典には兄小松耕輔の項目も。
Komatsu,Kosuke(小松耕輔 1884―)作曲家で音楽評論家. 日本に於ける作曲家協会の設立者. 歌曲の作品及び音楽の著書が頗る多い. 日大芸術科音楽部長、女子高等師範教授等を歴任.
音楽用語の調査と分析は、平五郎の早くからの研究テーマだった。大日本音楽協会は1936年(昭和11)11月、「楽語統一調査事業」を発足させた。書記長として事業を統括したのが平五郎。後に「標準洋楽語彙」として出版された。さらに磨きをかけ、渾身の力を込めた完成版が、この「音楽百科辞典」である。B5判、計311頁。平五郎にとってのライフワークの集大成と言えた。
【NHKと大立ち回り】
戦前の話だが、音楽用語を巡る出色のエピソードがある。NHKと大立ち回りを演じているのだ。天下のNHKが、何の後ろ盾もない指揮者ひとりを相手に、番組出演停止という、大人げない強権を発動した。怖めず臆せず正論を吐く平五郎の澄まし顔が、よほど腹に据えかねたらしい。
“事件”が起きたのは1938年(昭和13)4月である。
1つ。AK(NHK東京放送局)の番組プログラムから、平五郎作曲の作品が突然、外された。
2つ。平五郎が指揮者として出演予定だった番組で、放送前日になって出演拒否を通告された。
4月24日付の読売新聞夕刊は、社会面の左肩に4段持たせの見出しで詳報している。(※巻末資料に記事全文)
「AKと作曲家 著作權侵害の争ひ」
「小松平五郎氏が音樂辭典に轉載の譯語から」
「出演停止にまで發展」
【著作権の陰に面子?】
見出しにある「著作権の侵害」とは? 平五郎はその前年、「音楽百科辞典」の習作版「模範音楽辞典」を出版。大日本音楽協会の「楽語統一調査事業」で制定した訳語も入れた。前述の通り、同事業は平五郎が書記長を務めている。
これに対し、NHKは「訳語の著作権は音楽協会からAKに譲渡されており、辞典の出版は著作権の侵害」と抗議。番組出演停止の措置に踏み切った。
ただし、である。確かに著作権は譲渡されたが、それは辞典出版から3週間も後の話。出版時の著作権はNHKにはまだない。どうやら、大放送局がこぶしを振り上げた理由は他にあったらしい。
騒ぎの直前、NHKはロシアの作曲家リアードフの作品演奏を「本邦初演」と大々的にPRして放送。これに猛然とかみついたのが平五郎だ。「私が主宰する国民交響楽団が10年も前に演奏済み。その後、放送もされている」と公表し、NHKの失態を満天下にさらした。
面子をつぶされたNHKが、怒り心頭に発して嫌がらせに出たのが、出演停止の真相のよう。平五郎は「権威を損ねたNHKの仕返しであり、弱い者いじめだ」と一歩も譲らなかった。
読売が大きく取り上げたのは、ガリバーと小人の喧嘩だからだ。「小松平五郎氏は作曲家小松耕輔、小松清両氏と共に“作曲三兄弟”の一人」(読売紙面)という事実だけが、平五郎の社会的信用の担保。守ってくれる会社もなく、かばってくれる組織もない。指揮者という一個人にとっては本来、勝てる喧嘩ではなかった。ここは知恵を働かせるしかない。おそらく、読売にリークした。
双方はその後、和解したらしい。そうでなければ、NHKが冒頭の「大東亜戦争行進曲集」の作曲を平五郎に依頼したり、完成版「音楽百科辞典」が世に出たりすることはなかったはずだ。
【NHKには兄も鍛えられる】
NHKを巡っては以前、兄の耕輔も大一番の戦いを挑んでいる。音楽著作権の確立を求めて「日本作曲家協会」を設立し、理事長に就いた耕輔は、著作権料の支払いに応じない巨大組織に対し、「会員の楽曲は一切、放送させない」とストライキを断行。1933年(昭和8)7月、NHKが折れる形で、作曲家、作詞家への相応の支払いを認めた。後にこれが「日本音楽著作権協会」(JASRAC)に発展して行く。
NHKは江戸の敵を長崎で討つはずが、果たせなかった。耕輔は平五郎の労をねぎらい、高らかに祝杯を挙げたに違いない。NHKには鍛えられた恩こそあれ、恨みつらみは無かった。
【野に置け平五郎】
小松平五郎は生涯、市井に生きた。兄耕輔が学習院や東京女高師の教授を全うし、楽壇の公的なポストに立ち続けたのとは対照的に、在野の音楽界に身を置いた。教職にしても、期間は各校まちまちのフリーランス。収入も身分も、安心、安定からは遠かった。しかし、在野だから見える世界がある。在野だから出来る仕事がある。野に置けレンゲソウ、野に置け平五郎である。
小松平五郎の主な著作、訳書(「小松耕輔WEB音楽堂」より)
| 著書名 | 著者 | 出版社 | 出版年 |
| 声楽を志す人々へ | ルイザ・テトラツィーニ 著小松平五郎 訳 | 春陽堂 | 昭和7年 |
| 音楽百科辞典 アルス音楽大講座第2巻 知識篇 | 服部龍太郎 小松平五郎 | 婦人画報社 | 昭和11年 |
| 楽譜読本 | 小松平五郎 | 三省堂 | 昭和18年 |
| ウィーンの森の物語同聲三部 | シュトラウス作曲 小松平五郎 編曲 | シンキュウ社 | 昭和24年 |
| ウィーンの森の物語混聲四部 | シュトラウス作曲 小松平五郎 編曲 | シンキュウ社 | 昭和24年 |
| 音楽百科辞典 | 小松平五郎 | 婦人画報社 | 昭和25年 |
<第2章>ふるさと東由利
【独自の文化圏】
前にも触れたので手短に済ます。小松平五郎が生まれ育ったのは、出羽山地の西、東由利の玉米村だ。「玉の米」と書いて「とうまい」と読む。ルーツは中世の武士団「由利(ゆり)十二頭(じゅうにとう)」の玉米氏。地方豪族の名前が、村の名前として残った。
玉米村は独自の経済圏と文化圏を誇った。今も残る村社の名前は「大物忌(おおものいみ)神社」。出羽一の宮・鳥海山大物忌神社の末社だ。「大物忌」の名を冠する神社は、県内でも3つだけ。社格は地域のステータスでもある。
奥州合戦(1189年)を機に、信州の武士団が土着し、切り開いた城下町兼農村集落。たくまずして自立自存、独立不羈の気風、気質が根付いた。硬質な精神風土を苗床に、平五郎は兄たちと同様、多感な少年期を送る。土地柄が人柄を育てる。独立心が強く、辛抱強い。正直で優しい。これすべて秋田人の美質である。東由利の風景と人々には、800年の星霜が溶け込んでいる。
【ふるさとへ疎開】
小松平五郎の生涯に微笑ましい彩りを添えるのが、疎開のエピソードだ。兄耕輔と一緒に終戦直前の1945年(昭和20)4月、東京から秋田の玉米村へ。小松家本家の10代目当主で村長の小松榮男(さかお)(1915~2006)を頼って身を寄せた。小松家の現当主で、小松耕輔音楽兄弟顕彰会の会長を務める小松義典氏のご尊父である。
疎開の経緯が耕輔の自伝後編「わが楽壇の思い出」に詳しい。耕輔は学習院から東京女子高等師範(現お茶の水女子大)の教授に転じていたが、還暦を越えて持病の眼病がぶり返す。「帰郷して静養してはどうか」と手紙をくれた榮男の好意に甘えた。
「(昭和20年)四月二十九日、晴、郷里に帰るため、明朝の汽車に乗ることになり、午後十時頃、家を出て上野駅に行き、夜を明かした。同行は広子(編者注・耕輔の妻)、久子(三女)、平五郎等であった。駅は疎開する人たちのため、非常な雑踏であった」
一行は翌朝、上野駅を出て、福島駅で奥羽線に乗り換え、横手駅で下車。駅前の旅館で一泊して次の朝、羽後交通の横荘線に揺られ、玉米村最寄りの老方駅へ。
【独自の文化圏】
平五郎は榮男村長に請われて村の助役に。戦争に取られて、役場も男手が足りない。平五郎はこの時、49歳。実務の手腕と快活な人柄が買われたが、「安定した収入を」という村長の気遣いもあっただろう。終戦をはさんで丸2年、玉米にとどまった。
村役場の仕事を手伝う一方で、「ハタハタ音頭」や「玉米小唄」「由利小唄」「玉米小学校校歌」などを作曲、踊りの振り付けもして村人を喜ばせた。歌を歌えば、心が晴れる、笑みがこぼれる。酒のつきあいも良く、千鳥足のご帰還も多々。村人との壁は早々に霧消した。
ペンネームは「平平平平」と「平」が4つ。「ひらだいらひらへい」と読ませて悦に入っていた。ひょうひょうとした人柄が浮かぶ。インテリ文士を思わせる、書生っぽい写真がいい。
「由利小唄」の作詞は、本荘の文人小島彼(かわ)誰(たれ)(1894~1960)。双方とも我が道を行く才人肌。どんなつきあいが?
【助役日記】
平五郎の手記「助役日記」が残っている。秋田魁新報社が終戦直後に発刊した言論誌「月刊さきがけ」の昭和21年7月号に掲載された。(※巻末資料に全文)
村の助役のつらい仕事が、戦死公報の配達だった。
ある日の日記。「一里半程、川を逆上った部落の高澤老人宅」に、北太平洋で戦死した二男の戦死公報を届けた。老人は3人の息子全員が応召。三男は復員したものの、長男は千島方面へ出掛けたまま、行方知れずだった。
「老人は彼の不幸をボソボソとカコチ続けた。私はただうなづいて老人の言葉をきくのみである。老人は自分の不幸を嘆く事に依って自らを慰めてゐた」
老人の妻がオミキ(日本酒)を用意してくれ、同行した担当職員と一緒に、囲炉裏端で熱燗を重ねた。平五郎もこの戦争では2人の甥を亡くしている。老夫婦とどんなやり取りがあったのか。
「珍しくあつい日ではあったが、焚火のあつさはちっとも気にならなかった」
帰りは、押して行った自転車にまたがった。
「夕陽を左の頬に、私は用意して来た自転車を飛ばした。上気した無帽の額に、そして大分長くなったアゴの白ヒゲに、風は爽やかに通り過ぎて行く。今日も雨は降りそうにない。田を耕してゐる人達は頭から泥まみれである。道の両側の田圃で蛙がうるさく鳴き出した。然し、東の空には雲一つなく星が光ってゐる」
戦後の農村の情景が浮かび上がる。
【文化から食生活まで】
「月刊さきがけ」は1945年(昭和20)から1950年にかけて54回発行された。秋田の新聞はいい仕事をする。うれしい事に復刻版が2017年、京都の出版社「三人社」から出された。平五郎は昭和20年12月、21年6月、7月、9月と、計4回寄稿している。
執筆者は他に石川達三、石坂洋次郎、石橋湛山、市川房江、河上徹太郎、佐藤春夫、釈迢空、宮本百合子、武者小路実篤、室生犀星…。文壇、論壇の雄が一堂に。
「助役日記」に戻る。地主と小作人の耕作権争い、作況調査を巡る町村長間の対立、祭りの準備等々、助役の出番はひっきりなし。人がいい分、あちこちからお呼びが掛かる。公務の一方で、音楽会や俳句教室、療養所の音楽慰問等々、地域の文化活動にも汗を流した。
「今日は本荘町の女學校で音楽會を開催した(中略)満員である。みんなよき音楽に飢えてゐるのだ。私は自分の作曲を二つ弾いた。久しぶりに自分の曲に心を打ち込んで弾けた」
「夜役場の宿直室で村の青年達を集めて俳句の指導をする。村の俳人青滴君に講義して貰う(中略)私の文化運動が次々と計畫され、次々と實行されて行くことはうれしいことだ。十時半散會」
しがらみにとらわれず、気取りもせず、それでいて遊び心を忘れない。心に自由を保ち続けた好人物だからこその軽快なフットワーク。心も体も満ち足りた日々だった。
【本当の自治政治】
「助役日記」には行政マンとしての慧眼も随所に。ある日の日記では、村の理事者(幹部職員)に対し、新しい時代を見据えた覚悟と責任を求めている。
「中央政府の圧政的上意政治にあまりに慣れ過ぎてきたため、(国や県に対し)自らをあまりに卑下してゐる(中略)これから本当の意味の自治政治が始まる。供米の割当権利どころか、行政、司法、警察権をさへ、町村自治体へ委譲してもらわねばならぬ」
権限の移譲の多くは志を得なかったが、地方復権の気概は十分に伝わったはずだ。
別の日の日記では、厳しい食糧事情を背景に、村議会で食生活改善の必要性を力説。「米と同様に自給動物タンパク資源の増産」を訴え、庭ではヤギや鶏を飼い、池ではドジョウやエビ、タニシを養殖するよう、熱弁を振るった。
どこかユーモラスな提案に、議場も和んだことであろう。
平五郎は「月刊さきがけ」21年6月号で「日本民主化の具体策」を問われ、こう答えている。
「町村政治を本当の自治體とする事、村長は村民直接の選挙で決定し、行政、司法、警察の實権を村當局に與へる事、中央、地方官の局課長に至る迄、凡て民間人を選挙に依って採用決定する事」
徹底した民意尊重の理念は、今日の行政のはるか先を行く。
同じ誌面で「最近一番腹の立った事は?」とも問われ、「悪臭フンプン、而も高値なる鰊の配給である」と回答している。当時の生活の臭いがして面白い。
【蟹のお医者さん】
「月刊さきがけ」が童謡の作詞コンクールを企画した。一席入選「蟹のお医者さん」に平五郎が曲を付けた楽譜が、昭和22年3月号に。
蟹のお医者さん
作詞 花岡としみ
作曲 小松平五郎
かにのお医者さん大めがね
はさみかついでヤッコラショ
コラ、ヤッコラヤッコラショ
かえるの子供の尾を切りに
たんぼの細道ヤッコラショ
コラ、ヤッコラヤッコラショ
迎えるほたるの小提ちん
あんまり早いよヤッコラショ
コラ、ヤッコラヤッコラショ
かえるのお濠はまだまだ遠い
お月さん出ないかヤッコラショ
コラ、ヤッコラヤッコラショ
作詞者の「花岡としみ」は、仙道村(現羽後町)出身の詩人で作詞家・木沢長太郎(1916~1992)のペンネームである。秋田県庁に勤めながら、生涯、歌詞を書き続けた。
ただし、応募作品全体に対する平五郎の講評は辛かった。
「概して子供の心に率直にふれたものが少なかった。子供そのものの率直な飾らない心の叫びを、そして無心の歌聲が欲しかったのである。大人の童謡、大人が讀んで大人の楽しむ童謡、大人が歌って大人が満足する童謡が多かった。(中略)これらは選に入らない。童謡は子供自身の無心の心の叫びでなければならないからである」
うーん、納得である。
【蟹のお医者さん】
「月刊さきがけ」はひとまず置く。平五郎が玉米村時代に作曲した「ハタハタ音頭」に触れたい。
作詞は秋田市土崎港出身で、プロレタリア作家の金子洋文(1894~1985)。文芸誌「種蒔く人」の創刊で知られる。大正半ばの大衆喜歌劇「浅草オペラ」が縁で、耕輔とつきあいがあったし、平五郎とは前述の「月刊さきがけ」で一緒に執筆している。
この小松平五郎作曲、金子洋文作詞の新民謡に、戦後間もなく、新たに振り付けし直したのが、三種町出身の舞踊家・石井獏(1886~1962)である。
【浅草オペラに前日譚】
石井獏と小松兄弟との奇しき縁は、以前の稿でも触れた。繰り返しになるが、少しだけ紙幅を割く。
石井は「浅草オペラ」で活躍。一緒に仕事をしていたのが、指揮者兼バイオリニストの小松三樹三(1890~1921)と、妻でダンサーの澤モリノ(1890~1921)だ。
三樹三は小松音楽兄弟の2番目。1921年(大正10)暮れ、31歳の若さで亡くなり、妻モリノも朝鮮巡業中の1933年(昭和8)5月、舞台で倒れて夫の後を追う。それから2年後、中国・奉天(現瀋陽市)の寺院で遺骨を見つけ出し、日本に連れ帰ったのが、石井獏だった
ムーランルージュ新宿座で「舞踊葬」を営み、多磨霊園に墓碑を建てた。ステージで踊る澤モリノが彫られている。
小松兄弟は石井の男気に深い恩義を感じたはずだ。人と人との不思議な縁を思う「ハタハタ音頭」の前日譚である。
【令和の時代も】
石井が踊りを振り付けた「ハタハタ音頭」は今も、県内各地で歌い継がれ、踊られている。
土崎港伝統芸能伝承会の門間厚子会長は八十路半ば。「金子先生は郷土の誇り。平五郎先生は東由利でしたね。昔は東海林太郎先生が歌ってくれた。今はハタハタも不漁続き。魚を呼び戻すためにも頑張りたい」と意気盛ん。
金子と平五郎と石井は、しっかり“種蒔いた人”に。3人とも、泉下でうれしかろう。
【妻は尾張藩御典医の娘】
平五郎の家族の事は、玉米時代も含めて、よく分からない。ちなみに、小松家本家の家系図「小松家系譜」には、平五郎の妻種子は「尾張藩御典医の娘」、長女典子は「ピアニスト」とある。
想像の翼を広げる。兄耕輔の音楽人脈に紀州徳川家16代当主の徳川頼貞侯爵(1892~1954)がいる。私財を投じて欧米から西洋音楽の楽譜や楽器、稀覯本を買い入れ、普及に尽くした「音楽の殿様」だ。
2人のつきあいは古い。学習院で一緒に管弦楽団を立ち上げ、「国民音楽協会」では頼貞も支援の輪に。耕輔のパリ留学時代には、皇太子時代の昭和天皇も交えた愉快なエピソードがあるが、ここでは触れない。
紀州の殿様は、尾張の殿様とも親密な交流があった。耕輔の弟のお嫁さん探しに、一肌脱いでもおかしくはない。紀州の殿様が尾張の殿様にひと声掛け、尾張藩御典医の娘に白羽の矢が立ったのでは?
ともあれ、家庭にあって、平五郎はどんな夫であり、どんな父親だったのか。自作の似顔絵を貼り付けた著書の奥付印にも似て、遊び心満載、明るく、愉快な家庭人であったと信じたい。
故小松平五郎 略厂
一八九六年 → 一九五三年
◎明治二十九年 小松平蔵五男として 秋田県由利郡玉米村に出生
◎玉米小学校卒業後上京して 東京都小石川区
◎京華中学に入学
◎慶應大学経済学部 学生中よりワグネルソサイエティーの指揮をとる
◎昭和二年 国民交響楽団を組織 指揮者となる
◎昭和六年 帝国音楽学校にて教へる
◎その他 日大芸術科 日大二中などで教へる
◎昭和二十年 秋田県玉米村に疎開し、助役を務める
◎昭和二十二年 帰京後 日大二中 桐朋中学校にて音楽を教へる
◎昭和二十八年三月六日 脳軟化にて没す
◎主な作品
神々の失望、快走船、合唱曲の編曲、数多くの校歌
秋田県疎開中 玉米音頭、玉米小唄、ハタハタ音頭、由利小唄、本荘小唄
◎著書 楽譜の知識、音楽辞典など
【東由利村報】
玉米村は平五郎が亡くなった2年後の1955年(昭和30)、隣村と合併して東由利村と改称。引き続き、小松榮男村長が村政を率いる。
1970年(昭和45)11月1日付の「東由利村報」が、由利本荘市のホームページに残っていた。紙面のトップを「文化の日に四氏 晴れの村功労者」の見出しが飾る。功労者に選ばれたひとりが、この年が17回忌だった小松平五郎。「生涯を作曲と指揮活動に捧げた」とした上で、次のように紹介している。
故小松平五郎氏 昭和三年から十六年ににかけて、国民交響楽団(当時としては、いまのNHK交響楽団につぐ大規模で本格派オーケストラ)指揮者。仙台交響楽団を創設、指揮者となる。パドマ合唱団、立教大学交響楽団を創設、指揮者。帝国美術学校講師などをつとめ、活躍した。また、大日本作曲家協会、大日本音楽家協会理事として活躍し、著名な作曲に「慶応讃歌」「快走船と魔海」「蛇身獻離」「人間礼讃」「神々の失望」など。著書に「模範音楽辞典」がある。玉米村助役就任中には、村勢の伸展につくされるかたわら、玉米小学校々歌・玉米小唄・由利小唄・ハタハタ音頭など、郷土の詩情を五線譜に託し、紹介した。(東京都杉並区・本村館合出身・遺族、小松種子氏)
【〽玉米よいとこ】
旧玉米村出身者がふるさと会を開く度に歌う歌があったという。小松平五郎作詞作曲の「玉米小唄」である。「小松耕輔WEB音楽堂」所収の楽譜に、平五郎の思いが添えられている。
「これは小生のソカイ記念として唯一のものですから永久に唄って下さい。当世の人々にこんな助役が居ったわと、永久に思い出して頂きたいのです」
人を食ったような3番目の歌詞もそうだが、何とも愉快な助役である。
【〽玉米よいとこ】
1. ああ~トトトン
玉米よいとこ八汐の麓
一度来て見れや 二度来にゃならぬ
玉の米コに 雪の肌
2. ああ~トトトン
わらび折り折り八汐の麓
唄ふあねこのあの声のよさ
とって見せたや頬かぶり
3. ああ~トトトン
平五郎助役はハゲで白ひげ
年は六十でも気は二十五六
あねこ泣かせのあのうしろ姿
(1、3番の作詞は小松平五郎、2番は小松大亮)
【〽玉米よいとこ】
話が横道にそれる。
小松平五郎宛の絵葉書が1枚、小松家本家に残っていた。玉米村に疎開後、雄勝郡新成(にいなり)村(現羽後町)の知人に挨拶状を出したのだろう。それへの返事らしく、兄耕輔と一緒に遊びに来て欲しい旨、したためられている。消印は読み取れないが、疎開した昭和20年5月頃か。
当時の交通事情が垣間見えて面白い。新成村最寄りの西馬音内(にしもない)駅へ行くにはまず、東由利の老方(おいかた)駅で羽後交通横荘線に乗り、終点の横手駅へ。ここで国鉄奥羽本線に乗り換えて湯沢駅へ。さらに羽後交通雄勝線に乗り換えて、西馬音内駅へというルートだ。
しかし、湯沢―西馬音内間が水害で不通だったらしい。絵葉書には「湯沢駅に自転車を手配する」とある。新成村までは10キロほど。果たして平五郎、自転車旅を覚悟で出掛けたかどうか?
横荘線、雄勝線とも今はない。往時茫々。
<第3章>家族の絆
【ソウルからの手紙】
東由利の小松家本家の奥箪笥に、110余年も前の封書がある。丁寧に保管され来たのであろう、封筒の白さにくすみはなく、便箋の墨の字は今なお鮮やかだ。
宛名は「秋田縣由利郡玉米 小松とみ様」、差出人は「京城南大門外御成町百三十一番戸 東京殖産商會京城支店 小松平蔵」。1911年(明治44)11月14日の日付だ。
差出人の小松平蔵(1853~1922)は、耕輔や平五郎らの父親。日本統治下の朝鮮で農地開発の仕事に就いていた。宛名の「小松とみ」とは小松家8代目当主の未亡人で、当時の事実上の当主だ。ちなみに平蔵の妻と同名である。
平蔵については前にも触れた。村の庄屋だが、子弟の教育に情熱を注ぎ、多くを東京へ進学させた。結果、台所は火の車。さらには「井戸塀政治家として村長、郡会議員などの表面に立ち、家産を蕩尽した」(秋田人物風土記)。
しかし、明治の気骨は決断に迷いがない。再起を期して、土地や屋敷をあっさり捨てる。海を越え、単身、朝鮮へ。
【「平五郎が厄介に…」】
ここでは手紙の内容を紹介したい。時候の挨拶や9代目当主儀兵衛の体調を気遣った後、日本に残した家族の逼迫状況を説明、補助米の融通や借金の免除を願い出ている。
平五郎に触れた箇所も。
「息子耕輔の所帯も弟の平五郎が厄介になり、孫も生まれて、日々、生活費がかさみ、私の月給の残りを仕送りして、何とか暮らしています」
「自分はどんな困難があっても、飢えさえしのげればいいが、子供だけは普通の人間に育て上げ、親類の顔を汚さないようにしたい」
【ソウルで客死】
平五郎には兄4人と姉1人、弟1人がいる。戸籍上の長兄は夭折。事実上の長兄が耕輔だ。その下の弟翠(みどり)は、米国に渡った商社マン。次に三樹三、千年太郎と続く。千年太郎は「つねたろう」と読む。小松家の番頭格の奉公人の養子となって、北海道積丹の岩内町へ。この後にチヨ、平五郎、清と続く。
うち、耕輔、三樹三、平五郎、清が、後の世に言う音楽4兄弟である。
平蔵が海を渡った後、平五郎に続いて母親のトミ(1860~1936)と子供たち全員が、東京の耕輔宅に身を寄せる。耕輔は前年に結婚したばかり。新妻広子(1887~1958)はびっくりしただろう。
平蔵は朝鮮滞在10年後の1922年(大正11)3月25日、ソウルで客死。たまたま現地にいた北海道の千年太郎が最期を看取った。享年68。
【涙多き物語】
平蔵しかり、耕輔しかり。昔の日本の家長には、子供や弟妹の面倒をとことん見る気骨と覚悟があった。平五郎はそんな父親や兄を見て育った。父親が去った後、長兄の耕輔こそが父であり、師であったに違いない。
その平五郎が、せっかく進学した慶應義塾を中退して音楽家を目指すという。経済的余裕などあろうはずがない家族が、これをすんなり許したかどうか。耕輔の背中を見て育ったからこその決断だが、兄もまた、弟の才能と力量、覚悟のほどを見抜いたのだろう。結局はこれを許した。
冒頭に紹介した慶應ワグネルの「平五郎作品発表会」(大正14)。プログラムには、若き平五郎の苦衷をしのばせるくだりがある。
「卒業の間近に奮然、身を引いて作曲に專念する道程には、實に幾多の涙多き物語を有するものである」
「涙多き物語」が具体的に何であったかはともかく、本人にも、家族にも、それなりの苦悩があり、葛藤があったに違いない。かくして、家族の絆はいやが上にも強まった。
【広子夫人の日記】
耕輔の妻広子(写真円内)は、東京女子師範の音楽教師。耕輔の名代として森鴎外の愛娘の森茉莉や、フランス社交界で名を馳せた大富豪・薩摩治郎八の妹つた子にピアノを教えている。森茉莉の結婚披露宴にも呼ばれたほど、森家の信頼は厚かった。
広子は筆まめだった。すべてを日記に付けていた。亡くなった後、夫耕輔が私家版「広子日記」として身内に配った。小松家の貴重な家族史である。
日記の中に、平五郎の名前が計8回、登場する。
「大正五年一月一日 家族、主人、自分、盛広(編者注・耕輔夫婦の長男)、美枝子(長女)、平五郎、清、女中きよ」
「昭和十五年一月一日 家族一同元気よく楽しく新年を迎えた(中略)引き続いて清、光子(清の妻)、千代(耕輔の妹)、翠、平五郎、みな打ちそろい、午後七時まで賑やかに屠蘇をくみかわした」
年の始めには毎年、家族一緒に正月の膳を祝っている。仲睦まじい大家族である。1923年(大正12)3月9日には、2年半のフランス留学を終えた耕輔を、平五郎ら家族全員が横浜港に出迎えている。
【平五郎の最期も】
日記には、平五郎が体調を崩し、息を引き取るまでの経緯も克明に。
「昭和二十七年十二月二十四日 平五郎氏急病の知らせあり。午後十時頃、三枝子(長女)と見舞いに行く」
「昭和二十八年一月三日 小松平五郎重体のため、翠、自分、三枝子の三人、夜十時頃同家に至る。その後しばらくして脳軟化症となり、一時危篤を伝えられたるも、もちなおしたり」
「三月五日 平五郎河北病院へ入院せり」
「三月六日 平五郎氏様態急変、今朝九時十五分ついに世を去った。兄弟たちも河北病院に集まる。ただちに西荻の家(平五郎の自宅)に帰り、親戚一同協議の結果、種々の打ち合わせを行ったはず。自分は皆々、心配して遠慮したほうがよいとのことで家に留まった」
日記はこの後、通夜や葬儀、初七日、納骨へと続く。淡々とした筆致に悲しみがこもる。享年56。
【書は人なり】
由利本荘市東由利の東由利中学校前庭に、小松音楽兄弟の顕彰碑が立つ。建立から今年で48年。
左下に4人の自筆の名が刻まれている。建立時は既に故人だったから、生前の直筆の書を刻んだのだろう。
右から3人目が平五郎だ。書は人なり。字に勢いがある。夢も志もある人生を自由闊達に生きた。そんな人だからこその、伸びやかで、自信に満ちた勢いがあった。
【藝術上の一等國たれ】
稿を閉じるに当たって、小松平五郎が終戦直後、「月刊さきがけ」昭和20年12月号に寄せた小論を要約して紹介する。タイトルは「藝術上の一等國たれ」。平五郎には時代が見えていた。人情味あふれる音楽家は、冷徹な眼を持つ教養人、知識人でもあった。 (※巻末資料に全文)
藝術上の一等國たれ ―音楽の動向に就いてー
小松平五郎
第一次欧州大戦後の政治思想的動きは極めて活発だった。ナショナリズムからソシアリズム、リベラリズム、アナアキズム、インタナショナリズムへと全世界に広がった。藝術の世界でも新運動が始まり、極端なフューチュアリズム(注・前衛芸術)が登場。流行病的に若き作曲家群を捕え、作曲界に大波乱を投じた。
しかし、ドイツのナチズム、イタリヤのファシズムが台頭すると、一転して國家主義、民族主義運動が世界を覆い始める。音楽でもナショナリズム全盛となり、我国では終戦迄、国家主義に固く閉じこもってしまった。国家主義政治の強圧で、日本の音楽は世界より一世紀も遅れたのである。
さて、終戦を迎えて一転、叫ばれ出したのは、各層の自由開放だ。一瞬にしてリベラリズムに我國全面が塗り替えられた。音楽も同じ。終戦翌日のラジオから流れ出したのが、今まで封じ込められていた敵国のメロディーであった。その後のラジオは、衆望を満たすためのインタナショナルな音楽で埋め尽くされている。日本人の作曲など、ひとつもない。理由は簡単。日本人の作曲は、吾人の藝術的欲求を満たすにはあまりに貧弱だったからだ。
終戦と同時に凡ては瞬時に解放された。政治的に、思想的に、芸術的に。今迄圧迫された部面が、初春の草木の芽の如く、活き活きと、誰はばかる所もなく、延びて来ている。
日本の音楽は今後、如何なる動向を辿るのか? インタナショナルに動く事、必然である。一地方の特殊な民族音楽であっても、インタナショナルなものに発展、敷衍させねばならない。それには科学的手法と文化的創作が不可欠だ。凡ての埋もれた芸樹的素因がインタナショナルに光り出して来る。
我々は戦に敗れた。そして一等國より四等國になり下がった。それは然し、うそである。戦争に敗けた事は全くの事實だが、音楽的に吾々は昔より四等國であった。戦争に敗れたが為ではない。
(日本の音楽は)インタナショナルに光るべき素因はたくさん持ってゐる。然し、これをインタナショナルに光らす手段方法を持たなかった。手段方法が極めて幼稚で、非文化的だった。
我々は戦争に敗れた。そして、戦争的には四等國になり下がった。しかし、私は少しも悲しまない。五等國、六等國になっても恨みはしない。我々は藝術的に一等國になればいいのである。
吾々の國は藝術的に一等國になり得る数々の素因を持ってゐる。この素因を科学的手段と方法を用ひて國際文化的に創作する事こそ、今後、吾々の取るべき道であり、我が日本の藝術的動向となすべきではあるまいか。
(十一月二十日 音楽家)
【自由人のダンディズム】
玉米村時代を除いて、小松平五郎の日記や自伝の類は、ほとんど残っていない。だから、浮かび上がるイメージと実際の人間像には落差があるのかも。
ただ、書生っぽさが残る写真や疎開時代の愉快なエピソード。頼まれればクラシックから民謡、童謡、歌謡曲と、よろず何でもござれの仕事の流儀。苦労人の割には、意外と自由な発想、自由な生き方を貫いた人ではなかったのか?
あの時代、身過ぎ、世過ぎの自由を保つには、よほどの覚悟と信念が必要だった。自由人のダンディズムこそが、この音楽家の持ち味であり、凄みなのだと思う。
風の吹くまま、気の向くまま、あちこちのオーケストラを指揮し、あちこちの大学で教鞭を執る。請われれば田舎の村の助役まで。官位を求めず、名もいらず。それでいて、ライフワークの「音楽百科辞典」はきっちり仕上げて、56年の音楽家人生に悔いを残さなかった。
五線紙に転がる音符のように、ひとつ所に納まることを潔しとしない。逍遥自在、ひょうひょうと口笛吹いて生涯を全うした。野に咲く花の慎ましい気品と静かな覚悟。自由と信念を貫いた在野の音楽家・小松平五郎の、今年は生誕130年である。
おわり
<資料1> 1938年(昭和13)4月24日 読売新聞夕刊
作曲家 著作權侵害の爭ひ
小松平五郎氏が音楽辭典に轉載の譯語から出演停止にまで發展
著作権侵害問題をなかにAK(注・NHK東京放送局)と作曲家小松平五郎氏との間に紛争が起こり、出演停止問題にまで発展して悶着をつづけている。
小松平五郎氏は小松耕輔、小松清両氏と共に“作曲三兄弟”の一人。問題は同氏が昨年九月某日、某書店から出版した模範音楽辞典中の一部に音楽協会の事業である「楽語統一調査事業委員会」で制定した訳語を取り入れているが、この著作権は昨年十月廿日、音楽協会からAKに譲渡されているため、昨月丗日、AK著作権係から出版元に抗議したことにはじまり。
去る八日正午放送した“花祭りプログラム”から、小松氏作曲の「降誕会の歌」はオミットされ、更に廿日昼の演芸放送のユーフォニック・コーラスの合唱にAKから指揮を依頼された小松氏が、放送前日出演を断られ、指揮者なしで放送させたという出演停止問題を起こすにいたったものである。
これは小松氏側に言わせると、AKから出版元に抗議のあった前々日の去月廿八日、AKが“本邦初演の名曲”と銘打って放送した洋楽リアードフ作曲「八ツのロシア民謡」が、昭和三年、小松氏主宰の国民交響楽団が初演して、その後、放送もされているので、小松氏からAKへ“初演”ではないと指摘したために、AKが権威を損ねたものとして犬糞的にいやがらせの態度に出たものだとしている【写真は小松平五郎氏】
弱い者虐めだ 小松氏の話
「音楽辞典に使用した委員会訳語は、私が委員会書記長となり、一緒に制定したもので、私の辞書に使用するについては、委員会にも音楽協会にも諒解を求めての上で、辞書の序文にも出所を明らかにして使った。協会が、委員会で作った訳語の著作権をAKに譲ったのは、十月廿日。私の出版発売は九月丗日ですから、これは問題になりません。それを理由に出演を差し止めるのは、弱いものいじめでしょう。私は三月廿八日の放送に対する抗議の仕返しだと思います」
感情的仕返しではない AK当局の談
「昨年放送協会では日本音楽協会に六千円ほど出して、標準音楽語の判定を委嘱した。ところが完成後、この版権が放送協会に属するか、音楽協会にあるか、問題が起こったので、昨年十月廿日、正式に証書を作り、音楽協会から譲渡して貰ったものである。だから当時、その委員会の書記長をしていた小松さんは、当然、版権が放送協会にあることを御存じのことと思う。だから小松さんが著書にそれを使うのは、道徳的にどうかと思っている。此の事はリアードフ作曲のロシア民謡の本邦初演が小松さんであったと云う忠言への感情的仕返しでは絶対なく、又放送出演を拒否する理由でもない。何かその辺に行き違いがあって小松さんが誤解しているのではないか」
<資料2>「月刊さきがけ」昭和20年12月号
藝術上の一等國たれ
~音楽の動向について~
小松平五郎
第一次欧州大戦後の政治思想的動きは極めて活発なものであった。即ちナショナリズムからソシアリズムへ、そしてあらゆる思想活動はリベラリズム、アナアキズム、インタナショナリズムへと全世界に活発となって行った。従って藝術的な動きもこれに伴って新運動が開始され、特に音楽藝術方面に於いて甚だしく、その主たるものは極端なフューチュアリズムの活動であった。
此の運動は流行病的に當時の若き作曲家群を捕え、當時の作曲界に大波乱を投じた。そしてその将来はどうなるか、頗る混沌たる状態に立ち至ったのであった。
しかし、やがてドイツのナチズムイタリヤのファシズムが政治的にあなどるべからざる勢力を示すに至るとともに、世に漸く、國家主義、民族主義運動の舞台となり、ソ連の赤色運動に対抗するが如き形となったのであるが、藝術方面に於いても、この政治的経済的空気の反映に依り、正に行き詰らんとした状態から反轉、俄かに「古典に還へれ」と云ふ運動が起こったのである。
此のクラシシスムの運動が各藝術層に相当な根強さを持ち、特に音楽に於いては此の新方向にはっきりとした指針が與えられたかの如き感があった。即ち、作曲方面に於いては勿論の事、演奏方面に於いても俄かにクラシック万能時代の観を呈して来た。然してその後、政治上に於いては益々、國家主義、民族主義の強要されるに及び、音楽方面に於いてもナショナリズムの全盛となり、特に我國に於いてもナショナリズムの全盛となり、特に我國に於いては演奏作曲陋固に於いて終戦迄、全く國家主義に固く閉じこもってしまったのである。
終戦と共に一転して叫ばれ出したものは、各層の自由開放であった。それがまた、素晴らしい勢力をもって一瞬にして忽ちリベラリズムに我が國全面が塗り替えられてしまったのである。音楽方面に於いては真っ先に此の運動が起こり、終戦翌日のラジオから流れ出したのが、今まで封じ込められていた敵國のメロディーであった。これは多分に政治的工作を示す不自然なものではあったかも知れないが、かくなるべきは当然の事であり、今迄音楽的貧困にカコち喘へいていた音楽藝術層は、政治的工作を待つまでもなく、必然的に斯くあるべきであったのである。
その後のラジオは衆望を満たすためのインタナショナルな音楽で埋め尽くされている。新聞広告に見る音楽会のプログラムなども全部そうである。今迄、無理矢理に付け加えられた日本人の作曲など、ひとつもないという状態である。その理由は極めて簡単である。即ち、日本人の作曲は、吾人の藝術的欲求を満たすにはあまりに貧弱であるからである。
今迄強いられた國家主義政治の強圧に依り、音楽は全く世界情勢より一世紀も遅れた感があるのである。独り音楽ばかりでなく、凡ての日本に於ける藝術活動は、強圧國家主義政治の為、数世紀も立ち遅れた不用藝術になり切ってしまっていた。故に、此の我國の不当な政治圧迫に、不満を持つ各層の心ある者は、表面活動よりスッポリと姿を隠してしまったのである。或は村へ、或は山へ、そして都会の此の堪へ得ざるこの空気より逃れて田や畠へと身を転じたのである。鳥獣草木こそは全く彼等の唯一の慰め手であったのだ。
然し、終戦と同時に凡ては一時に解放された。政治的に、思想的に、藝術的に今迄圧迫されて部面が、初春の草木の芽の如く、活き活きと、誰にはばかる所もなく延びて来ているのである。
此の様な情勢に於いて、音楽は如何なる動向を辿るか。作曲創作部面に於いては勿論の事、演奏方面に於いても、必ずインタナショナルに動いて行く事は必然であると断言する事が出来る。
元来、音楽者そのものは他の凡ての藝術に比較して、極めてインタナショナルなものである。第一に音楽を表現する用具、手段がインタナショナルなものであり、それに音楽をほんとうに解し得る層そのものは、極めてインタナショナルな文化層であるからである。
一地域に限られた特殊の民族音楽であっても、これらインタナショナルな文化層ならば忽ちこれを解する事が出来るのである。然し、この際、考えらるべき事は、そのままであってはいけないのである。極めて科学的な発展、極めてインタナショナルな禮式の下に於いてこそ、始めてインタナショナルな面に浮かび出して来るのである。
吾々は今まで、吾々の持つ民族藝術をそのまま保存し、普及すべき事を叫んで来た。特に音楽に於いて私は、これを機会あるごとに強調して来たのであった。
然し、今にして私は、これはあまりに非文化的である事に気がついた。あまりに國家主義的である事に気がついた。私は此の吾々の持つ特殊な民族藝術を、極めて狭小な一地域に保存する事より、これを発展敷衍してインタナショナルなものにせねばならぬ事に気がついたのである。それにはどうしてもあるがままにしての存続に膝を折る事は不可である。即ちこれに科学的発展を加え、文化性を與えなければならない。特に音楽に於いて然りである。科学的手法を用いて、文化的創作に依ってこそ、凡ての埋もれた芸樹的素因がインタナショナルに光り出して来る。
我々は戦に敗れた。そして一等國より四等國になり下がった。それは然し、うそである。戦争に敗けた事は全くの事實ではあるが、一等國より四等國になり下がったと云ふ事はウソである。音楽的に吾々はもう昔より四等國であったのである。戦争に敗れたが為に四等國になったのではない。戦争前よりすでに四等國であったのである。
それは、音楽の内容そのものに(演奏、創作共)何等のインタナショナルに光るべき素因はたくさん持ってゐる。然し、これをインタナショナルに光らすべき手段方法を持ってなかった。その手段方法が極めて幼稚で、非文化的であったからである。
吾々は戦争に敗れた。そして戦争的には全く四等國になり終わった。私はこれを少しも悲しまない。むしろ五等國、六等國になり下がっても恨みはしない。我々は藝術的に一等國になればいいのである。
吾々の國には藝術的に一等國になり得る数々の素因を持ってゐる。あらゆる藝術の部面に於いてこれを持ってゐる。この素因を科学的手段方法を用ひて國際文化的に創作する事こそ、今後、吾々の取るべき道であり、我が日本の藝術的動向となすべきではあるまいか。
(十一月二十日…音楽家)
<資料3>「月刊さきがけ」昭和21年7月号
助役日記(一部省略)
小松平五郎
〇月〇日
午前の配達で高澤照富君の戦死公報が届いた。一里半程川を逆上った部落の高澤老人の次男である。北太平洋で昨年の五月戦死されたと云ふ。係の阿部書記と午後から公報伝達に出かける。
三時頃、高澤老人の家についた。
老人は六十四、五。村でたった一人の神官である。浮世の名利から離れた温厚な老人である。三人の息子がゐた。三人とも応召。三男は終戦と同時に復員したが、次男は昨年五月に戦死の内報。長男は千島方面へ出かけて消息が分からない。老人は不幸をボソボソとカコチ続けた。私はただうなづいて聞く。敢えて慰めの言葉をかけなかった。老人は自分の不幸を嘆く事で、自らを慰めてゐたからである。
婆さんがオミキを用意してくれた。タキ火を景気よく燃やして、イロリを囲んでオミキを御馳走になった。
あつい日ではあったが、焚火のあつさはちっとも気にならなかった。炎を見つめていると、何となく気が落ち着き、親しみが湧き上がって来るのだ。
老人の尽きざる話をあとに外へ出た。老人はヤカンと湯呑みを持って来て、門口で「もう一杯」「もう一杯」と酒をすすめた。私は快く二杯を重ねて阿部書記と別れた。
夕陽を左の頬に、私は用意して来た自転車を飛ばした。上気した無帽の額に、そして大分長くなったアゴの白ヒゲに、風は爽やかに通り過ぎて行く。
今日も雨は降りそうもない。田を耕してゐる人達は頭から泥まみれである。
道の両側の田圃で蛙がうるさく鳴き出した。然し、東の空には雲一つなく、星が光ってゐる。
〇月〇日
今日は本荘町の女学校で音楽会を開催した。出場者は女学校の露木先生、組合病院の山田先生、組合病院の院長さんのお嬢さん、女学校の有志、それに私。
一時開会。満員である。みんな、よき音楽に飢えてゐるのだ。
私は自分の作曲を二つ弾いた。久しぶりに心を打ち込んで弾けた。露木君も彼の作曲を気持ちよく歌った。道川の療養所の先生の作曲も発表した。久しぶりのよき集まりである。
〇月〇日
午後、石脇濱の国立療養所に慰問に出かけた。
「終戦前はうるさい程、慰問団が来てくれたが、此の頃は誰も来てくれません」
と所長は喜んでくれた。患者さんや看護婦さん達も喜んでくれた。
六百名程収容出来るのに、食糧事情の逼迫から今では半分も病室が空いてゐる。
午後四時発のバスで帰村した。殺人的超満員で、手も足も動かせない状態だった。
夜、役場の宿直室で村の青年達を集めて俳句の指導をする。村の俳人青滴君に連続、講義してもらってゐる。農繁期にもかかわらず、十三名集まった。女子も二三名。熱心な青年達である。
私の文化運動が次々と計画され、次々と実行されて行くことはうれしいことだ。十時半散会。
〇月〇日
町村長会の臨時総会である。村長に代わって出席する。朝飯も食わずに自転車で出発。七時半本荘着。甥の所で朝飯を食べた。
九時開会。
今年度の作況調査で大分、意見が出た。
「稲作に経験のない町村長が作況調査など、やめた方がいい」
「いや、農事技術専門家も帯同して大いにやるべきだ」
二つの意見が対立したが、今年も昨年通りの調査と決定した。
もう少しゴタつけば、私も一言と思ってゐた。もっと根本的な所を衝いて見たかった。それは町村理事者の卑屈なる態度の是正である。今迄の中央政府の圧政的上意政治に慣れ過ぎて、自らを卑下していることに気が付かずにゐる。卑下と謙譲とを混同してゐるのだ。
やっと本当の自治政治が得られん時に、自らを卑下し、萎縮してせっかくの権利を喪失する。 供米の割当権利どころか、行政、司法、警察権をさえ、町村へ委譲してもらわねば、ほんとの町村自治の確立は出来ない。日本の再建などは全く思いもよらぬ事なのだ。
会議は一時に終わった。
二時出発、途中、石沢村の大庭君を訪ねた。洋楽レコードを持って居る音楽ファンである。
アルバムをめくっていたら、シベリウースの「フインランデイヤ」が出て来た。ロシアに蹂躙されてゐたフィンランドを救ふべく、「フィンランド人よ、立て、立って我が祖国を守れ」と呼号、フィンランドの再建を絶叫した世界の名曲である。
B29が帝都を初空襲して以来、今日程、音にしんみりと浸り得たるは無かった。
五時出発、最初の一里は極めて足が重かったが、行く程にペダルを踏む足も順調に七時帰宅。
〇月〇日
雨が降り相もない。畑作物はいよいよ枯死の一歩手前に迄迫って来てゐる。
いかに水がなくとも、万難排して田植えを進めなければならない。田植えが終われば、豊作祈願もかねて全村の大早苗降り祭をやる。村民が歌ふ「早苗降り音頭」の歌詞を青滴氏に頼んだ。
夜甥が東京からやって来た。米の配給は想像以上に悪いが、他の食糧品は案外やすくて豊富に出回ってゐるとの事である。
私は村常会で食生活改善を強調し、自給動物タンパク資源を増産すべき事を説いた。米のみで腹一杯にする日本の食生活を改善して、胃袋満足主義よりカロリー主義に転換すべきである。澱粉主義からタンパク主義へ。ニハトリ、兎等の飼養は勿論、山羊を各戸に一頭宛飼ふ。そして池に田螺、ドジョウ、エビと、繁殖力旺盛な淡水魚等の養殖を説いたのである。
山羊の如きは草だけで一日五合乃至一升の乳が取れる。山羊乳一合は米一合に匹敵する。
毎日五合の米を節約出来れば玉米村だけでも一日二石五斗、一ケ月七十五石、一ケ年九百石の米をうかす事が出来る。
加ふるに冬季は兎、ニハトリ、夏季は淡水魚に依るカロリー補給を考えるならば、一ケ年優に千五百石の米が浮いて来る。ホテイ様の様に胃袋をただフクラがす満腹感より、カロリー第一主義の文化的食生活に転換するにあらざれば、日本の食糧事情の好転は決して得られないのだ。
我が村の如き常に冷害に苦しむ山間農村の指導者は充分、此の事を考えて貰ひたい。
〇月〇日
午前九時より農地委員会。当村にも地主の小作地引き揚げ問題が二三現れて来た。
今日の問題は、今迄親戚の様につき合ってゐた小作人の田を、他の田と引き換えに引き揚げようと云ふのである。然し、換え田は良い田でない為、小作人はもとの田を作りたいと云ふ。
地主の曰く。
「今迄、味噌がなければ味噌、米がなければ米、さては鍬、鋤と面倒見てやったのに、あの田は嫌だ、此の田でなければ作れないなど、あまりに勝手。もう何処の田でも作らせない」
五六十年も前の地主対小作人の感情である。
小作人の方は、「借りたものはかへしてゐるし、地主さんの相当の我が儘も果たしてゐて、何ひとつ悪い事をした覚えがない」
地主の申し分は絶対に成立しない事を説いたが、地主は一歩も譲らず、午後一時、農地委員会は不成功に終わった。酒一升を買って軟化を試みたが不成功。夕飯後、名誉助役を伴って地主の家へ出かけ、午前一時までかかったが、終に力は及ばなかった。
其処には全く予期せざる問題が横たわってゐたのだ。単なる小作対地主の問題ではなく、地主の母親と女房、小作の母親と嫁とが、各々ひと組となって、深刻な感情の対立を持ってゐた。
「これは吾々の手では全く絶望だよ。女と女の関係は理屈では全く片付かないからナ」
名誉助役はかふつぶやいた。
外は相変わらずの晴れた星空である。
(作曲家、由利玉米村助役)
<資料4>1924年(大正13)6月5日付 朝日新聞学芸欄
松島氏の作品を聽く
小松平五郎
獨り音樂のみならず、凡ての藝術に於いて皆然りであるが、音樂に於いて特に、現代人の要求するものは、其の内容に現代人の喜び、悩み、悲しみ、ユーモア等、凡て現代人の生活がなくてはならぬ。若しこれらの要素が含まれてゐないならば、それが如何なる樂聖の作品であるにしても、吾々現代人には何等の価値もない。即ち吾人の生活とは全く没交渉と云はねばならぬ。結局それは、現代人には何等の感動も共鳴をも輿へぬ単なる和声学的音(おん)の配列に過ぎないことになる。
私は僭越ながら今夜(五月三十一日)の演奏で發表された松島彜子(つねこ)氏の作品に於いて、以上の論拠を前提として私だけの感想を述べて見たい。
(一)の弦楽四重奏(ニ)の洋琴奏鳴曲、此の二つは、現代人にはかなり縁遠いものの様に思はれる。少なくとも私には全く没交渉である。如何なる名人の手に依って演奏されるにしても、私には何等の共鳴も感動も受ける事は出來ないであらうと思はれる。形式への作曲の為の作曲で、心の要求より生まれたものでは無いように思はれる。即ち形式音樂の形骸に過ぎないのである。
どんなに日本の音樂の發達がおくれてゐるにしても、ハイドン、モツアルトの時代が既に遠い遠い昔に過ぎ去った事は確かだ。彼等は吾々の祖先ではあるが、吾々の時代の人ではない。彼等の音樂は吾々に取って和声学の教科書ではあるが、決して吾々現代人の要求する音樂ではない。
以上の二曲は恐らく松島氏の単なる試みであるかも知れない。然し真の藝術は決して試みであってはいけない。せきとめかねる心の要求でなければならぬ。
(三)のセロ獨奏曲甲(諧謔曲)、乙(幻想曲)、共に吾人の世界とはかなりかけ離れたものである。非常に複雑な生活を持ってゐる現代人の諧謔でもなければ幻想でも決してない。然し若し「それは私の有する諧謔であり幻想である」と松島氏が云はれるならば、それぎりの事である。但しさうなれば、松島氏は現代人の生活とはよほどかけはなれた、あまりに上品すぎる貴族的な諧謔の所有者であり、又あまりに浅い幻想の所有者である事になる。
(五)のヴァイオリン獨奏曲も(四)のセロ曲と少しも変わらない。或いはもっと上手な演奏者に依って演奏されたならばと云ふ遺憾はあったが、現代の眼まぐるしい生活をしている吾人には少しの感銘も受けられない。
(六)の五ツの獨唱曲を聞いて私は初めて松島氏のほんとうのもの(・・)に突き當たった気がした。恐らく松島氏にしても前の幾つかの大規模な器樂曲よりは、此の数個の歌謡曲にヨリ大なる自信を持ってゐられるのではないかと私は思ふ。現代人の女性も必ず此の獨唱には幾分かの共鳴を持つ事であらう。
(七)の甲(夜想曲)は、女性の持つ夜想曲としてはあれ以上望む事は無理であるかも知れない。然し、單に今迄使ひふるされたセンティメンタルな音(おん)の配列では困る。もっともっと未來へのあこがれ(・・・・)があってほしい。
乙の羽衣組曲は、詳しい内容の説明が附されてあっただけに、音(おん)に依って現わされた結果は、あまりに物足らないものであった。
併し五と六、特に五に於いて、松島氏のほんとうの天分がよく表わされてゐると思はれる。五に附された内容を次に引用して見よう。
「そは、わが天の羽衣なり。返し給へと願へども、漁夫はつれなく返す景色も無きに、かの衣無くては天上に帰るすべもない、とやせめかくと天路をかける雁を見てぞなげきける。」
歌謡式に現れて来るメロディーは、確かに天女のこれだけの悩みを十分現はしてゐた。
六に於いて、羽衣を再び得た天女が喜びに満ちて舞ひ狂ふ所、たしかによく表現されてゐる。此の二つは松島氏の最も自信のある、そして作曲もすらすらと少しの無理もせずに出來上がったものであらふと思ふ。然しあとの一、二、三、四はどんなにひいき目に見ても、付された内容とはかなり懸隔のあるものの様に私には思はれる。
以上、今夜演奏された全曲を通じて悩みを取り扱ったものは凡て成功してゐるが、他は全然私には受け入れる事は出來ない。
現代人に取って在来の和声はあまりに砂糖と塩である。現代人にとっては、砂糖と塩はあまりに単一無味乾燥である。吾人の生活が複雑になればなる程、味覚に於いて砂糖塩以外に非常に複雑な、味わへば味はふ程味の出るものを要求する如く、音樂に於いても然りである。
今の世に生くる作曲家は、決して在来の和声学にのみ囚はれてはならぬ。そして今の世の人々の為に作曲してほしい。
以上は凡て私一個人の感想である、私は現代人の一員ではあるが、決して現代人の代表ではない。故に私の感想は、松島氏の作品に對して現代人を代表せる一般的感想ではない、であるから松島氏は決して私の此の批評を以って直ちに一般的批評と思はれてはならぬ。單に一つの参考として頂きたい。
最後に私は、作品の価値如何を別問題として、作曲に對する松島氏の熱心なる努力に敬意を表する。
<資料5>1926年(大正15)10月16日付 朝日新聞学芸欄
音・・・と・・・色
小松平五郎
高い聲のことを黄色い聲といふ、これは色と音との間に関係のある証拠です。音と色との関係について研究した人は各方面に沢山ある。
英国の科学者、リミングトンといふ人は、カラー・オルガンといふものを造りました。それは、キーをたたくと色が出るような仕組みでしたが、これは色だけで音が出ませんでした。有名な作曲家スクリアビンはこれをオーケストラと一緒にして、音と色とを組み合わせてみました。またドイツの病院で脳の手術をしたとき、誤って視神経と聴神経をつなぎ合わせたところ、色を見ると音を聴き、音を聴くと色が見えたといふことです。楽聖ベートーベンはロ短調を考えると黒い色を連想したといふことです。
そんなわけで色彩的に敏感な人はまた音樂的にも敏感であらねばならないわけですが、日本の夫人は着物の色などにのみ鋭く、音についてはまるっきり無智を示して居ます。これはその素質がまだ十分開発されてゐないのではないでせうか。(談)



















































