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「小松耕輔研究~末弟の小松清研究ノートを添えて」船山 信子

はじめに

 今年、2017年は小松耕輔の生誕133 周年に当たる。1884年(明治17年)12月14日、秋田県由利郡玉米村字舘合[とうまいむらあざたてあい](のちの東由利町・現在の由利本荘市)に生まれ、1966年(昭和41年)2月3日東京で81歳で没した小松耕輔(以下、耕輔と略す)は、日本の洋楽の導入初期の明治期から大正期を経て昭和期の20世紀半ばまで、およそ60年間にわたり、息の長い活躍をした音楽人である。その守備の領域は、作曲はもとより、音楽理論、音楽評論、音楽学、音楽教育まで広範囲に及んでいる。
 筆者の奉職する上野学園大学図書館の所蔵室(校舎棟14階)の一隅に、夥しい耕輔の蔵書、膨大な自筆譜、音楽会等のプログラム・カタログ類、4冊の日記、書簡・ハガキ・写真類、洋行(1920~ 22)の際に収集したポスター等が収納されている。これらは耕輔が没した翌年、1967(昭和42)年に、神田神保町の古賀書店を通して、ご遺族から学校法人上野学園に寄託され、「小松文庫」の名の下に、上野学園大学図書館に保管されている* 1
 筆者は13年前に論文「小松耕輔研究―「小松文庫」の調査を中心に」を、『上野学園大学百周年記念論文集』(2004、上野学園大学発行)(以後、旧論文と略す)に掲載した。その拙論では、先ず小松耕輔研究の現状と「小松文庫」の調査報告、次に耕輔の知られざるオペラ《靈鐘》の自筆譜(スケッチ)の検証および、上演されずに終わったオペレッタ《収穫》の自筆譜(未完の総譜、ピアノ譜)に関わる報告と分析を行い、それらを手がかりに、耕輔の広汎な音楽活動の軌跡とその意味の追究を試みた。
 ところで、2014(平成26)年に小松耕輔生誕130年にちなみ、「小松耕輔近代日本における洋楽の伝道師生誕130年記念市民音楽祭」と題する記念行事(11月15日 由利本荘市文化交流館「カダーレ」大ホール)が、小松耕輔顕彰会(会長小松義典)主催、由利本荘市教育委員会等の後援で行われた(筆者もシンポジウムに参加)。本誌はその記念として一連の行事の記録を収録している。昨2016(平成28)年秋に小松義典氏から、本誌に上記論文「小松耕輔研究──「小松文庫」の調査を中心に」を再録したいという申し出を受けた。
 実はこのその執筆後12年の間に、耕輔の末弟、小松清の膨大な遺品・資料が上野学園に寄贈され、筆者はその研究にすでに着手している。そこで、今回の再録に当たり、端緒に着いたばかりの小松清研究の一部を、終章(Ⅱ)に新たに独立した「小松清研究ノート」として付け加えることとし、新たに論考のタイトルも表記、「小松耕輔研究──末弟の小松清研究ノートを添えて」と改めた次第である。

Ⅰ 小松耕輔研究

小松耕輔の生涯研究資料

小松の生涯について直接手がかりとなる資料を整理しておこう。
①年譜* 2:小松の死の10年前の出版で、小松自身が校閲したはずの正確かつ詳細なもの。
 最後の10年に関しては、郷里で編纂された資料集『小松音楽兄弟』所載の「音楽の父 小松耕輔年譜」* 3に詳しい。
 次の4冊は小松の半生を回想した自著で、特に②[明治期]と④[大正期、昭和20年終戦まで]は「当時の貴重な証言として名著」* 4と評価される。
②『音樂の花ひらく頃 ―わが思い出の樂壇―』(1952、音樂之友社)
③『懐しのメロディー ―音樂家の回想―』(1957、文藝春秋新社)
④『わが思い出の樂壇』(1961、音樂之友社)
⑤『世界音樂遍路』(アルス、1924) 1920(大正9)年から足かけ3年のパリ留学時代の記録で、一部が③に再掲載されている。
⑥日記:小松の著作の原典となった日記はかなり重要な資料である。小松は日記を、決して毎日ではない(中には白紙状態の1年もある)が生涯にわたり(死の12日前まで)几帳面につけていた。小松文庫に入っている日記は全部で7冊(大正5、6、7、8、9年版當用日記、昭和25、26年の記載ある横書きノート)、遺族の田中みや子氏(小松の長男盛廣の長女)所蔵の日記(小型の手帳も含む)が65冊ある* 5。これらは補完する関係にあるが、大正3年の日記および大正10年の日記*6を欠く。また明治44年以前の日記(②にかなりの引用がある)はこれらには含まれておらず、それらの所在は不明である。
⑦小松広子『広子日記』(1963) 妻広子(1958没)の長年の日記の抜粋を、彼女の追悼として小松がまとめた私家版で、彼の私人としての謹厳で穏和な人となりの証言である。

小松耕輔の生涯概観

小松耕輔の生涯と音楽履歴は大略次のとおりである。
 耕輔は先述した通り、1884(明治17)年12月14日に、平蔵(1853-1922)とトミ(1859-1936)の二男(長男は夭折)として、秋田県の玉米村に生まれた。父の平蔵は2期(明治29年と明治33年)にわたり玉米村の村長を務め、郡会議員等の要職を歴任する「村の名士」であった。
また妻トミと共に短歌をたしなみ、トミは漢学も学んでいた。耕輔は1891(明治24)年4月館合尋常小学校入学。1905(明治29)年に矢嶋尋常高等小学校に転校し、1898(明治31)年に同高等小学校を卒業する。ここには「オルガンがあって唱歌を立派に教えてくれる先生がいた」(② 6頁)。その人が正教員の木内喜七(1872 -? 耕輔が転校した年に秋田師範学校を卒業し、赴任してきた)。(幼年・少年時代にどのようなきっかけで音楽に目覚めたかについては、②で耕輔自らが語っているが、さらなる実証が加えられる必要があろう)。
 1901(明治34)年3月に上京し、同年6月に東京音楽学校選科、翌年9月に同校予科、翌1903(明治36)年9月に同校本科に入学する。3年後の1906(明治39)年9月同校研究科に入学してピアノを専攻(1909年修了)。早くもこの年の6月2日、楽苑会(山田源一郎、小林愛雄と3人で結成した歌劇研究会)の旗揚げ公演のために作曲した歌劇《羽衣》を上演する。そして同年9月に弱冠21歳にして、しかも学生の身分で、学習院講師に任命されている。これらは、若くして耕輔が社会的な信頼を得たことを物語っている。
 翌1907(明治40)年4月、第2回楽苑会公演で歌劇の第2作、《霊鐘》を上演する。翌1908(明治41)年に雑誌「音楽界」の編集主事、学習院初等科入学の昭和天皇の唱歌科担任(22才)。翌年音楽教育会の理事就任。4月に本多ひろ子と結婚する(後に一男六女をもうける)と同時に、東京外国語学校ドイツ語の専科(夜学)に入学するという勤勉ぶりを発揮している(なお1916年には、同校フランス語の専科にも入学)。
 1912(大正元年)、喜歌劇《収穫》の大半を作曲(未完)したが、上演の企画は挫折する。この年、明治天皇崩御により殉死した乃木将軍を悼んで9月に出版した≪乃木大将の歌≫が広く普及している。1915(大正4)年、「音楽普及会」の発起人となり、8月には音楽教育振興を目指す『大正幼年唱歌』の刊行を始める(1918年12集で完結)。(『大正少年唱歌集』は1919年から1929年にわたり第12集を刊行。)1917(大正6)年5月に弘田龍太郎等と「作曲研究会」を組織、この年に《芭蕉》《沙羅の木》、翌年に《泊り舟》など歌曲の代表作が誕生する。
 1920(大正9)年9月、パリ留学の途につく。欧米の音楽および音楽教育観察・調査を内務省・文部省から嘱託されての2年半に及ぶ長旅となる(1923年3月帰国)。パリ音楽院にてシャルル・ヴィドール、ポール・ヴィダルの作曲クラスを聴講。オペラやコンサートに熱心に通う一方、ドイツ、オーストリア、イタリア、英国、アメリカに視察に向かう。この欧米体験を経た耕輔は、音楽教育活動を社会活動に広げるとともに、音楽評論・音楽学の領域における、西欧音楽の啓蒙活動にさらに積極的に取り組んでいく。
 1924(大正13)年11月、学習院教授に就任。翌年に、本居長世、中山晋平等、8人の仲間と共に「作曲家組合」を結成。1927(昭和2)年11月に「国民音楽協会」を設立して理事長に就任。同28日に第1 回合唱祭を開催、これが日本における最初の合唱コンクールとなったことは耕輔の功績の一つに挙げられよう。また、翌年12月には日本作曲家協会理事長に就任する(1930年改称された「大日本作曲家協会」総務理事)。
 1937(昭和12)年6月、東京女子高等師範学校教授に就任(1951年には改称されたお茶の水女子大学教授の音楽科主任となる)。1940(昭和15)年9月、日本大学音楽部長を兼任。1946(昭和21)年、皇太子殿下に音楽を進講。1952(昭和27)年、東邦音楽短期大学教授、1954(昭和29)年同大学講師となる。小松耕輔楽壇50年を記念して《小松耕輔作曲選集》(1956、春秋社)が刊行される。1966(昭和41)年2月3日逝去。享年81歳。従四位に叙せられ勲三等旭日小綬章を受勲。(以上の略歴において、作品と多くの著作、訳書、歌劇台本訳等については、ごく一部を除いて省略した。)
 ここで見えてきたのは、耕輔の音楽に関わる活動の守備の広さである。しかし、次には、耕輔のごく初期の活動である、歌劇に的を絞ることにしよう。

小松文庫の概要

小松耕輔の蔵書
 小松文庫の蔵書カードによると、和書(教科書を含む)約1240冊、洋書約470冊、楽譜約1240冊がある。和書の中に小松の著書・訳書が36冊、小松編の出版楽譜が37冊ある(これらは残念ながら彼の全著作ではない。現に『世界音楽遍路』『懐しのメロディー』『わが思い出の楽壇』『広子日記』という重要な資料は小松文庫に収容されていない* 7

小松耕輔の自筆譜
1)小松文庫の自筆譜
 小松耕輔の自筆譜は長らくカード化されない状態にあった。最初に調査・整理が行われ報告されたのは、1996(平成8)年、上野学園大学旧音楽学部音楽学科の春田小百合作成の卒業論文[以下春田論文と略す]においてである*8。この論文は主として小松の夥しい数の自筆 譜の整理・カード化の作業に充てられ、その結果、小松文庫に属する小松の自筆譜の曲数は 564曲にのぼることが明らかにされた*9。これらの自筆譜の大半は五線紙ノートにぎっしり丹念に書き込まれている、歌曲・童謡・校歌* 10 (新・旧の小・中・高等学校・専門学校)・寮歌・社歌である。ノートには一部を除き日付がないものが多いので、これらから作曲年代を特定することは難しい。これら自筆譜にあって異彩を放っているのが、未完のオペレッタ《収穫》(後述)である。これら自筆譜の全ては、元来入れられていた破損の著しい5つの袋から、そのままⅠ~Ⅴの番号を付した5つの新しい図書館の銘入りの袋[自筆譜袋と称する]に1997年に移し替えられ、保管されている。さらに今回の調査で、小松文庫の書架に混入していた自筆譜が見つかったので、これらを新に6つ目の袋(Ⅵの番号を付した)にまとめ、先の5つの自筆譜袋と同じ場所に保管することとした。

2)小松文庫以外の自筆譜:遺族所有の自筆譜
 上述の春田論文の作成にまつわり、小松直系の遺族の田中みや子氏と春田・筆者が面会した折りに、同氏が複数の紙袋入りの相当数の自筆譜を保管していることが判明した。そこで翌年の1997(平成9)年に春田論文の作業の延長として、同じく音楽学部旧音楽学科の伊藤あゆみ作成の卒業論文[以下伊藤論文と略す]* 11において、田中みや子氏所蔵の全自筆譜を、春田論文の方法を踏襲してカード化した結果、遺族所有の自筆譜はおよそ764曲にのぼることが判明した*12。これらの自筆譜は、形態こそ小松文庫のそれと変わらないが、日付のより新 しい[1931-51年]自筆譜に集中し、自筆譜以外の出版譜やメモなど雑多な資料の混入も見 られた。これらは全て、小松文庫の自筆譜袋と同じ仕様の、Ⅴ ~ Ⅹ の番号を付した5つの袋 に収められ、田中みや子氏の同意の下で、上野学園大学図書館に管理を委託されている。小松文庫の雑誌・評論記事 −28− 小松文庫の少なからぬ位置を占めるのが、明治期から昭和30年代までの雑誌のバックナンバーである。それら夥しい数の雑誌は、現在まで未整理のまま小松文庫のカードから外されていたので、この度の調査において一覧表を作成した。またこれら雑誌のバックナンバーから小 松自身の執筆した記事を抽出し、同じく一覧表とした *13。『音樂界』(1908[明治41]年1月號創刊 樂思社 小松が編集主幹)、『音樂』(1910[明治43]年創刊*14 共益商社樂器店)などは1年毎に、金文字のタイトル付きのハードカヴァー付き製本が施され、小松が大切に保存した様子が窺える。小松耕輔が創刊に関与した雑誌で、あまり知られていない『樂苑』(1935[昭和10]年4月號創刊 東京シンキヤウ社 小松が「創刊の辞」執筆)も揃っている。
 また、自筆譜袋Ⅴには、新聞の批評記事の切り抜きが丁寧に貼り付けられた、新聞記事専用の2冊のスクラップ・ブックがあるのが目を引く。その多くは日付と新聞名のメモの記載がないが、明治43・44・45年の讀賣新聞ないし秋田魁新聞の名がみえる古い1冊(カード番号:Ⅴ/ (2) / Sc-2)および、大正5・6・7年の秋田魁新聞、讀賣新聞、日々新聞の名が散見される別の1冊(Ⅴ/ (1) / Sc-1)から、若き小松が雑誌のみでなく新聞紙上においても、音楽評論の健筆を振るったことがわかる。小松の文体(例えば「~をる」という終生抜けなかったくせ)から、これらの記事は全て小松の筆によると思われる。そうであれば、小松耕輔の筆名には、既知の「玉巌」、「つゆまろ」、「若松美鳥」、「高橋乙治」のほかに、新聞上で使われた「野狐髯」「あふひ」「いてふ」も加えられてよい。

オペラ3作品の楽譜の所在・様態

 ここで自筆譜研究の範疇に限り、3つのオペラ作品、《羽衣》(1906)、《靈鐘》(1907)、《収穫》(1912)に焦点を当てよう。これらの楽譜の所在の状況は次の通りである。
 処女作の《羽衣》の上演の年、1906(明治39)年に修文館よりピアノ・スコアが出版され、50年後にも同スコアが『小松耕輔作曲選集』(春秋社、1956)に収録された。修文館版は小松文庫にないが後者はある。上演時の総譜(弦楽合奏とフルート)の自筆譜は、小松文庫にも遺族所有の自筆譜袋にもない。小松の著述にもそれに言及した箇所は見あたらない。
 第2作《靈鐘》は翌年、1907(明治40)年に上演されたが、小松は「樂譜は銀座の共益商社より出版の豫定で原稿を渡したが火災のために紛失してしまつた。手ひかえが無かつたので全く跡方もなくなってしまつた。臺詞は小林愛雄氏の詩集『管弦』の中に収められて神田表神保町の彩雲閣より明治四十年四月に出版された」*15としている。また「多分關東大震災の時 燒失してしまつたことと思う。手元に控えがないので惜しい氣がする」*16と二つの回顧録で述懐しており、爾来この楽譜は残存しないと見なされてきた* 17。 
 しかしながら、その下書き用と思われる草稿2種が、田中みや子氏所有の夥しい自筆譜の中に埋もれていた(小松が控えがないので何も残っていない、と全否定しているのは、ひとえに総譜を指したというよりは、草稿自体を忘れていたのだろう)。
 草稿は別々に2種存在する。一つは小型の5線紙ノート1冊を占めている*18 [譜例1]。 もう一つは見開きの五線紙2枚の内、全3頁に書かれた15小節である* 19
 第3作の《収穫》は3つの中では最も規模の大きい「オペレッタ」で、1912(明治45)年冬頃に作曲された。小松文庫に以下の3種類の自筆譜および、手書き台本がある。

イ)極薄の和紙に書かれた手書き台本* 20
 ロ)歌のパート譜* 21[譜例2]
 ハ)下書き総譜* 22
 ニ)清書された総譜* 23
 以上の4種のうち、イ)の台本は全二齣(こま)の完成版、ロ)の歌のパート譜は第一・二齣とも存在しているが、ハ)ニ)の総譜は何れも第一齣のみで、第二齣は存在しない。

【譜例1】オペラ《霊鐘》草稿 第2・3頁
【譜例2】オペラ《収穫》歌のパート譜 見開き頁

オペラ《羽衣》《靈鐘》《収穫》研究

オペラ第1作《羽衣》(1906)
 《羽衣》は1906(明治39)年6月2日に基督教青年会館において上演された、「実質的な日本最初の創作として記憶すべきもの」* 24といわれる。これより遡ること3年、1903(明治36) 年7月4日に日本初の本格的オペラ上演、グルックChristoph Willibald Gluck(1717 ~84)の《オルフォイスOrfeo ed Euridice》(1751)公演(東京音楽学校奏楽堂)が行われた。
翌1904(明治37年)に北村季晴(1872 ~ 1931)が発表した叙事唱歌《露営の夢》が、次の年に歌舞伎座において舞台仕立てで再演され、「日本人が作った最初のオペラだとして大評判になった」* 24 が、作曲家はオペラを意図したものではないと発言、半世紀後に牛山充が「極 めて幼稚なもの」、「戦時中[日露戦争]のきわもの」 *25と評した。
 さて、小松は《羽衣》に関して、2冊の回想録で雄弁に語っている(Ⅰ② 46-49頁、Ⅰ③ 64-65頁)。この創作の遠因を、「この《羽衣》を創ったことには動機がある。明治35年頃に帝大からドイツ文學と宗教學の研究のためにドイツに行った姉崎嘲風(正治)[中略]はドイツでヴァーグナーの研究をし、オペラを実際に聽いてきた。そこで日本へ歸ってきてからヴァーグナーの研究を宜傳した。これが當時の文壇にひじょうな反響を起した[後略]」(③ 64頁)とし、「此の頃世間の歌劇熱に刺戟されて音樂新報社に於ても同社同人を中心として歌劇の研究を行うこととなり新たに樂苑會を組織し、第一回の公演を催すこととなつた」(② 46頁)
 「東京音樂學校本科3年生で、卒業間際の時間を、この作曲に注いだ」(同)動機について、「みんな『オルフォイス』の影響ですよ。少なくとも私は、あれで奮起したんだ。ぜひ日本人の手でもと……。ヨーロッパでワグナー熱が全盛の時で、日本にも、だんだんワグナーがわかってきたころで、彼は自分で作詞作曲したというのを聞いて感激して、それでは私もと、それから自分で作詞作曲したんです」「えらいもんでしたわ」*26と述懐すると共に、彼が実は《オルフォ イス》の本番を見ていなかったことも白状している *27
 同名の謡曲に題材を求めた《羽衣》の具体的な内容については、ピアノ版出版譜が存在するのでここでは簡単に触れるにとどめる。36小節の「前奏」と、独唱・二重唱・合唱の交叉する番号つきの10曲から成る。全曲が4分の4拍子、第6曲の中間部のハ短調以外は全てハ長調、同一音型を多用した唱歌の様式の支配する簡素で朴訥な作品だが、日本人の書いた初めてのオペラの「試作」としての要素は兼ね備えていたといえよう。

オペラ第2作《靈鐘》(1907)
 次に第2作《靈鐘》の草稿について詳しくみよう。楽譜の所在については先述した通り、遺族所有の自筆譜の中に2種類、別々に存在する(注18・19 参照)。先ず五線紙ノート[自筆袋Ⅷ- (1)]をみると、全37頁(小松には珍しくノンブルが書き込まれていない)に341小節にわたり、作曲された全曲とおぼしき鉛筆による走り書きのスケッチが、オペラの進行順に書きつけられている。中には書き損じを示す斜線が施されている段も2箇所ある。序曲は見あたらず、いきなりアカペラの混声4部合唱曲から始まるが、序曲が省かれたとは考え難いので、別の自筆譜に紛れて序曲の草稿が存在するのかもしれない。
このオペラの成立と初演について作曲者は《羽衣》と同様、二回想録で言及するが、②がより詳細で正確を期し、③はすっきり略述している。

私は[明治]三十九年十月より作曲を始め四十年の四月に略々脱稿した。( ② 58頁)

  翌明治四十年四月十三、十四の兩日、午後七時から牛込神樂坂の高等演藝館で樂苑会の第二回公演會を開いた。この時上演されたのが、小林愛雄作詞、私の作曲した「靈鐘」と、グーノーの「ファウスト」一幕、及び澤田柳吉作曲パントマイム「影法師」であつた。「靈鐘」は我國の振事「道成寺」の材源なる印度古劇「鐘魔」によつたもの1で、花の江と稱する一女性が僧妙海を慕うて、梵鐘の中に隠れていたところを取り殺す筋である。この歌劇には簡単であるが全部オーケストラを用いた。曲風は洋楽の組織によつたもので、多少のレシタティヴを混えている。せりふは全然用いない。(③ 66-67頁)
 登場人物は五人で、花の江(ソプラノ)若い僧妙海(テノール)主僧(バス)他に僧二人である。時は春の夕暮。處は山深き寺院の境内。[中略]管弦樂は戸山學校の陸軍々樂隊を中心として他に有志者、合唱は女子音樂学校生徒及び東京高等師範學校生徒有志其他の諸君総總五十余名であった。(② 58頁)

 オーケストラが使われたと回想されているが、草稿にはピアノ・パートしかない。最後の頁に「300」と記されているが、これは全小節数(下表の小節数の合計は294小節)の書き込みと思われる。草稿による作品全体の構成は、私見によれば次の7つの部分に分けられる(以下の頁数は便宜上、著者がつけたもの。Tはテノール= 僧、Bはバス= 僧、主はバス=主僧、妙はテノール=妙海、花はソプラノ=花の江、レシはレシタティフ)。

 《靈鐘》の以上の分析対象は五線紙ノート[自筆譜袋:整理番号Ⅷ-(1)]に書き詰められた草稿だが、もう一つの五線紙2枚[ 整理番号Ⅷ-(16)]については、上表7項のフィナーレの合唱(11小節)および後奏の改訂稿* 28に他ならないことが判明した。
 以上、これらの草稿および一部その改訂稿から全体像を組み立ててみた。次の諸点により、完成作品の全貌を窺い知ることは出来ない。まず、《羽衣》にはあった序曲が見あたらない、女声3部合唱(12頁)の最下声が男声の音域になっている等、譜面の整合性を欠くのが目につく、ヴァイオリンのオブリガート旋律(14-15 頁、24頁)のピアノ部分が白紙である、ピアノ・スコアのみでオーケストレーションは皆目分からない等。しかし下書きスケッチ色が濃厚であるにせよ、これらの草稿から、忘れられていた小松第2作目のオペラ《靈鐘》の骨子が把握できた。
 小松は自作をどう評価していたのだろうか。「[前略]《羽衣》よりはよい出來であったと思う。此の曲にはレシタティーヴォ風のもの*29を入れ、よほど劇的の表現にも成功したように思っ ている。[中略]演出の出來は相當によく、都下の各新聞はいずれも同情ある批評を書いてく れた」*30として、新聞評の抜粋も引用している。しかし東京日日新聞のように、《羽衣》の方を評価する酷評* 31もみられた。

未完のオペレッタ《収穫》(1912)
 第3作の《収穫》は《靈鐘》の5年後に企画されたが、自筆譜が未完のまま放置され、上演されることなく終わったオペレッタである。先述した3つの草稿(注21・22・23 参照)中の歌のパート譜[Ⅵ/ (2) / Ms-33-1]の表紙には「Récolte de l’Amour / Opéra Comique en une acte. /喜歌劇/収穫/壱幕」と書かれている。フランス派らしい小松の仏語タイトルから、「収穫」とは「愛の収穫」の意味が含まれていることがわかる。台本は全1幕2齣[ こま]の構成であるが、残っている楽譜は何れも1齣のみである。この作品について小松自身は例外的に寡黙であり、半生記の内でも言及しているのは次の1912(明治45)年の箇所だけである。

 そんな關係で二人相談の上「収穫」を作ることとなり、同君は脚本を私は作曲を受持つことになつた。私は一月十二日から作曲に從事した。(中略)そこで[帝劇の二月のユンケル作曲「熊野」の評判があまりよくなかったので]帝劇は日本人の作曲になつたものを上演しようという考もあつたので、私と藤澤君と兩人で當時の帝劇會長だつた澁澤栄一男と面會することとなり、益田太郎氏の邸で「収穫」の下讀みをすることになつた。そうこうしている中に主役になるはずの柴田環が外國に行くことになり、結局「収穫」はお流れの形となつてしまつた* 32

 上述の「そんな關係」とは、「Pocket Diary Meiji 45」(博文館)明治45年のポケット日記中の1月5日(金)欄の「朝九時藤沢君来訪一処に田中正平博士を訪問、(中略)田中君の訪問はこんど企てたオペラについての相談のため。楽しい一日であった」という件から窺える。さらに1月12日(金)欄には、「喜歌劇『収穫』のオヴァチュアを書きはしむ」の記述がある。「藤澤[ 沢] 君」とは、台本を担当した藤澤古雪*33のことで、同じ日記の2月2日(金)、12日(月)、16日(金)、18日(日)、3月10日(日)、4月11日(木)、10月19日(土)欄に彼が来訪したとのメモ、9月9日(月)には小松が彼を訪問したメモがみられ、この年の頻繁な2人の往来がわかるが、詳細の記述は一切ない。引用文中の「渋澤との面会」についても日記にメモ書きがある。すなわち5月3日(金)の「主件」欄に「帝劇。収穫会。」と記され、文章欄に「○収穫会延期」とだけ記されている。この件が引用文中の「お流れの形」と一致するが、「益田太郎氏の邸の下讀み」についての日記の記述はない。
 物語の第1齣の舞台は「東京附近某村某神社境内」、かつては愛しあったが訳あって村を出た、今をときめくソプラノ歌手の夏山繁と外国で成功した波多野欣弥(バリトン)が再会。村人の収穫の踊り、わらべうた等を背景に求婚、インドへの同行を求める欣弥と応じる繁との愛の2重唱を園城寺侯爵の迎えが遮り、今宵の仮装舞踏会へと繁を強引に連れ去る。第2齣の舞台は赤坂の「侯爵家舞踏室」、仮装の客人が踊りさんざめく中で、歌を所望された繁は欣弥への想いを歌うと、仮装して紛れ込んで歌の中に彼女の本心を聴き雀喜す欣弥が非礼を詫びると、侯爵はこの宴を2人の婚約の祝いにしようと提案、大団円となる。

新しい小松耕輔像のために

小松耕輔の評価は死後40年を経たが現在も未だ確定しているようには思えない。(小松耕輔の歴史的な評価について、)秋山邦晴は昭和期以前の作曲家に触れた箇所で、「(前略)明治時代の瀧廉太郎や北村季晴[すえはる]*の創作歌曲にはじまり、明治・大正にかけての山田耕筰、信時潔にみられるいわば日本の作曲界の創生期ともいえる時代、そして大正初期以来の童謡運動を推し進めた小松耕輔、梁田貞[やなだただし]ら」と位置づけている*34。小松は「明治・大正 の作曲家の創生期」のジャンルから漏れた、「大正の童謡作曲家」というわけである。他方、「明 治の作曲家たち~音楽の花ひらく頃~」と題する奏楽堂特別展(2003.10.28-11.30)の対象と なった26人の最後の人物である。つまり「明治を担う最後の作曲家」と位置づけられている*35
 《羽衣》の出版譜に掲載された森歐外(筆名 源高湛[みなもとたかしつ])の巻頭言を見よう。

 (前略)韻語と聲樂とを併せ好める小松氏は、詩と樂との調和をもて畢生の業とせんと志して、こは只試みにものしつるなりとぞ。もとより我が國には例なきことにしあれば、初めより全き効果を収め得んことを期すべきにはあらず。(後略)
 
 「我が國には例なきこと」をした小松が「全き効果を期す」べきではなかった。しかし、小松が明治時代の最後の6年間に、3つのオペラ作品を手がけたものの、それ以降にオペラ創作の筆を折ったことは象徴的に思われる。
 ここでは、不完全ながら草稿がみつかった《靈鐘》を特に分析し、この幻のオペラの全体像を捉えた結果、これがレチタティーヴォの導入や劇作法の工夫の点で、(音楽的には歌曲や唱歌の域を超えるものではないが、)《羽衣》より進化したことが確認できた。 
 また民俗音楽の要素を加えた、最も大規模な《収穫》が全1幕2場の内、1場のみの清書総譜があるものの未完に終わった真相は何だったのか、「収穫会延期」という文字だけから究明することはできない。しかしながら、これ以後、小松はオペラ創作の筆を折り、他のジャンルの作曲と多角的な社会活動に移る点で、この転向は彼の創作の軌跡で、後の欧米視察旅行(1920-22)以上の意味をもつと思われる。
 小松が果たした役割は、作曲家というジャンルに留まらず、教養ある音楽文化人として、着実な評論活動を展開し、二代にわたる天皇(昭和天皇と今上天皇)の音楽教育を担当し、楽壇の要職を歴任し、社会的行動の中に自己の存在の場を求めた。このことを、小松文庫、そして彼のオペラの自筆譜が語っているようである。
 最後に付け加えたいのは、音楽学の重要性についての小松の1933(昭和8)年の次の慧眼は、(小松自身が音楽の啓蒙家に留まったにしても)注目に価しよう。

 [ 音楽雑誌の使命は]一つは所謂ヂャーナリステックなものと一つは学術的な専門的研究的のものとである。しかるに現在刊行されつゝあるものは前者に属するものが多く、後者に属するものは極めて勘い。( 中略) しかし音楽の真の向上は演奏、作曲、と相俟って音楽学の研究及び普及に尽力しなければならぬことは此処に言ふまでもあるまい* 36
 81年の長い人生を最後まで現役で貫き通し、作曲家というよりは音楽の求道者として、淡々と楽壇を睥睨し続けた小松耕輔は「明治期の作曲家」に留まったのではなく、「音楽研究家」(小松自身が自らをこう評したことがある* 37)としての己を貫いた。
 小論は本格的な小松耕輔研究のための序論に過ぎない。小松文庫の幾多の資料のさらなる研究、小松が教職にあった学習院大学図書館、東京女子高等師範学校(のちのお茶の水女子大学)図書館、さらに小松が創設に尽力し長らく理事長を務めた日本合唱協会に恐らく残っている関係資料の調査も残された課題である。

Ⅱ 小松清研究ノート

小松清の関連資料の所在

 小松耕輔の末弟、小松清(1899-1975)*1の死後26年目の2006(平成18)年に、光子夫人(1905-2006)が100歳の長寿を全うした。二人には子供がなく、光子夫人の里方の吉野 家と小松耕輔の長男の長女、田中みや子氏が整理に当たった際に、小松清家の遺品を、「小松文庫」のある上野学園大学に寄贈する旨の打診があり、これを受諾することとなった。そこで、 筆者が同年12月25日に、阿佐ヶ谷の小松邸に赴き、小松清の蔵書、著書、訳書、作曲した 作品の自筆譜、出版譜、自作録音を収録したSP レコード、その他のSP・LP レコード、書簡、 写真、演奏会プログラム、その他の資料を確認し、合わせて段ボール184個口がその年の内に、 上野学園大学上野校地に収められた。
 2012(平成24)年夏より、筆者はこれら厖大な遺品・資料の調査、整理に着手し、データ化の途上である *2
 これらの作業を通じて明らかになってきたことは、小松清のフランス文学研究者という主たる肩書きの陰に隠れていた、音楽関連の多彩な活動ぶりである。この観点を踏まえて、小松清の活動を鳥瞰すると、次のような分類が相応しいと思われる。

 1)著作活動
  ・著書   イ. フランス文学関連 ロ. 音楽関連
  ・エッセイ イ. フランス文学関連 ロ. 音楽関連
 2)翻訳活動
  ・著作   イ. 小説 ロ. 音楽関連:訳詩
  ・戯曲   イ. 文学作品 ロ. オペレッタ、音楽劇etc.
  ・詩(ボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌetc.)〔歌曲用〕
 3)作曲活動 イ. 舞台作品 ロ. バレエ ハ. 室内楽、器楽 ニ. 歌曲etc.
 4)作詞活動
 5)社会活動 イ. 演奏活動(指揮、ピアノ)ロ.フランス文学関連 ハ. 音楽企画:コンサート・オペレッタ・バレエetc. 上演 ニ. 音楽団体活動
 6)その他の記録・資料 イ. プログラム ロ. 書簡 ハ. 写真

 小松清の知られざる数百以上に及ぶ音楽作品の自筆譜は、分類の上、整理番号を付して、著作とその草稿と共に、データ化を進める途上にあるため、資料一覧については、別の機会に稿を改めることとする。

小松清と兄弟/生涯概観

 小松清(1899-1975)は、小松平蔵・トミの第七子、七男として1899(明治32)年4月15日に耕輔(1884-1966)と同じく、秋田県由利郡王米字舘合に誕生した。7人の兄弟の内、長男耕造は1877(明治10)年に生後2ヶ月で死亡、次男耕輔(1884-1966)に続く三男翠(1888-1970)は1907(明治40)年に東京高等工業高等学校(現在の東京工業大学)入学以来、染色一筋の人生を送った。四男三樹三(1890-1921)は指揮やヴァイオリニストとして活躍するも32歳直前に夭折した。五男千年太郎(1892- ?)は北海道に養子に行った他は不明。六男平五郎(1897-1953)は慶應義塾大学出身で母校のワグネルソサエティ他の指揮者、作曲家として活躍したが、56歳で世を去っている(清の遺品の中に、「平五郎」の名が書かれ、資料の入っている紙袋が存在し、後述する清作曲の舞踊劇の《トメリー物語》初演のオーケストラ指揮を担当している)。
 つまり、秋田の「寒村」(小松耕輔談)に生まれ育った小松兄弟、7人の男たちの内、4人がクラシック音楽活動に従事するという、音楽一家が形成されたのである。これは日本の特に明治期にあって、きわめて稀な「現象」であったといえよう。とりわけ末っ子の小松清は、4人の中でも、文学者と音楽者という二本の柱を75 歳の長い生涯にわたり貫き通した点で、他の兄弟とはまた一線を画す存在であった。
 小松清の履歴をざっと辿っておこう。以下は東京大学教養学部の記録による。清は1912(明治45)年4月に東京の私立京華中學校入学、1917(大正6)年同校を卒業する。その6月、18歳の清は東京音樂学校(現在の東京藝術大学)選科ピアノ科(現在の別科に当たる予備科)に入学(5年後の1922(大正11)年に同科を終了)、ピアノをかなり本格的に学んでいる。その同年、1917年9月には、最難関校の第一高等學校仏法科に入学する。病気のため1 年休学を経て、1922(大正11)年3月に同校を卒業する(すなわち5年間ずっと、一高生と、ピアノ選科生という両輪の学びを両立させたのである)。続いて同年翌4月に東京帝國大學文學部仏蘭西文學科入学、1925(大正14)年3月に同学を卒業する。卒業と同時に明治大學講師となる。
 1927(昭和2)年には東京高等學校講師に任ぜられ、その9年後に同校教授、1949(昭和24)年に東京大學教授に就任している。そして2年後の1951(昭和26)年に東京藝術大学講師を兼任することになる。1960(昭和35)年、60歳の時に東京大学を定年退職すると、東京藝術大学教授に迎えられる。この年にはフランス、西ドイツ、オーストリア、ハンガリー、オランダ、イタリア各国に出張、各地の音楽事情を視察、国際音楽評議会総会等に出席する。同年東京藝術大学学生部長(任期2年)、翌1965(昭和40)年より2年間、同大学評議員に就任。そして67歳の1967(昭和42)年、同大学を定年退職する。同年に引き続き東海大学教授に、翌年4月より同大学教養学部の初代学部長に就任、同大学の運営に腐心する。
 大学以外の社会的活動としては、1965(昭和40)年ユネスコ国内委員会委員、その他国際音楽評議会全日本委員長、日本作詞会長、日本音楽学会理事、全日本鼓笛バンド連名会長を歴任、また国民音楽協会音楽コンクール創設にも携わっている。
 1975(昭和50)年4月12日に永眠。享年75歳(あと3日で76歳を迎えるところであった)。三樹三は31 歳、平五郎は55歳で世を去ったので、長生きだった耕輔(81歳で病死)の次に長生したことになる。
 小松清は、1926(大正15)年10月に吉野光子と結婚している。光子は大正デモクラシー研究の騎手とうたわれた吉野作造(1878-1933) の一男六女の三女であり、百歳を超える長寿を全うした。この光子の希望で、その死までは夫の遺品に他人が手を触れることはできなかったのである。
 ところで、フランス文学研究者としての小松清の主要な領域は、アルフレッド・ド・ミュッセAlfred de Musset(1810-57)等を中心とするフランス文学作品の翻訳にあるといえよう。ミュッセの訳書には『世紀の告白La Confession d’un enfant du siècle』(1949、白水社)、『二人の恋人Les deux Maîtresses』(1951、岩波文庫)等があり、何千頁にも及ぶ訳稿や、夥しい量の校正刷りなどが丁寧に保管されてあり、彼の文学関連の「仕事」について、丁寧に追跡していくことが可能ではあるが、小論の関心事は、「未知の領域」である音楽関連の仕事である。
 そこで、彼の作曲した数百以上に及ぶ音楽作品の中から、主要作品と思われる2作、《トメリー物語》と歌曲集《仏訳短歌九首》を取り上げてみる。

作品研究:《トメリー物語》

小松清の舞踊のための舞台用作品が複数存在しており、また上演もされている。それらは、《トメリー物語》《太古の真昼》《幽愁賦》《源氏物語》などで、それぞれ分厚い自筆譜が、厚手の紙でしっかり梱包されるか、紙袋に収められて、自宅廊下のタンス引き出しや押し入れの桑折に保管されていた。
 この《トメリー物語》(全2場)は、珠實會[たまみくゎい](日本舞踊家の花柳珠實が主催する舞踊の会)の第4 回公演が1931(昭和6)年、日比谷公会堂で行われた際に、プログラム第3部で初演された(題名は自筆譜のピアノスコアでは《トメリイ物語》)。なお第1部は古典舞踊〔日本舞踊〕2曲、第2部は「児童舞踊」と「小品舞踊」全8曲、第3部は「傳説的な物語に題材をとって創作しましたバレー」(プログラム)の《トメリー物語》及び、《支那の刺繍》(大中寅二作曲、振付・指揮:花柳珠實)という構成。
 小松清の鉛筆書きのメモ(総譜Ⅱに挿入されていた)に、「作曲、昭和6年九月二十四日 十月三十一日/初演 同十一月八日 珠實會で発表。/日興[ 響のミス] アンサンブル/小松平五郎指揮」とあり、続いて作品の簡単な説明が続く。「筋 二場(一場と二場の間は弦の低い音でつながれている)/曲はアラビア風の音楽で、その中に、老臣マートンや舞姫トメリーのモーティヴが入りまぢってゐる」
 残されている自筆譜は次の通りである。筆者の資料整理番号を付記している。
□総 譜「トメリイ物語Ⅰ/由利泉案/小松清作曲」[B6版五線ノート] Ⅲ-(6)-3a
    「トメリイ物語Ⅱ 同上」[ 同上] Ⅲ-(6)-3b
    「トメリイ物語Ⅲ 同上」[ 同上] Ⅲ-(6)-3c
 *全て鉛筆書きでスケッチの域を出ていない(空白パートが多い)。完成版ではない。
□ピアノ譜「トメリイ物語」[ 同上] Ⅲ-(6)-2a
 ピアノ譜「トメリイ物語」[ 同上] Ⅲ-(6)-2b 
 *全て鉛筆書きで一部スケッチや訂正があるが、総譜より全体の構成が明瞭である。完成版ではない。総譜、ピアノ譜ともに、演奏に使われてはいない。
□オーケストラ用パート譜(2種あり) 全608小節
  旧版(鉛筆のスケッチ)
  完成版(万年筆できちんと清書されている):表紙に各楽器名が記されている。
   「1st Violon.」(2冊) 「2nd Violin.」(2冊) 「Viola.」 「Cello.」「Bass.」「Flute.」「Clarinette.」「Oboe.」「Trumpette.」「Fagotte.」「Trombone.」「Timpani / Bell / Petite caisse / Cymbal」(以上1部)。演奏に使われた痕跡がある。
 以上のように、完全に読める楽譜が存在しないために、音楽的内容に触れることは難しい(恐らく指揮者用の総譜、練習用のピアノ譜が別に存在したと思われるが、現在まで遺品から見つけることはできなかった)。
 さて、この筋書きの作者について、自筆譜には「由利泉案」、プログラムには「由利泉」とあるが、小松清の筆跡による筋書きの草稿〔原稿用紙7 枚〕の冒頭に、「珠實會作/小松清氏作曲/トメリー物語」と記されている。「由利泉」は作曲者の出身地、東由利町にちなんだペンネームの可能性が濃い。
 登場人物は王、マートン(老いた廷臣)、舞姫10人、トメリー(舞姫)、ハスタム(若き騎士)、刀をもった男。舞台は「東洋の或る国。草稿の「第一場 宮殿」「第二場 牢獄」には、それぞれ「1~76」「1~23」の番号が付され、各場面のト書きが書き込まれている。
 あらすじは異国の舞姫トメリーの悲恋と死という簡単なもの。第一場はある王国の宮殿。王妃を失った王が、自分に靡かない奴隷の舞姫トメリーを監禁。他の踊り子に目もくれず無理にもトメリーを踊らせようと、廷臣マートンに呼びに行かせるが、彼女には踊る気配がない。マートンが杖を鳴らし威嚇するのでしぶしぶ踊り出すと、踊りは白熱を帯び、心を奪われた王が彼女に近づく。逃げるトメリーに王が接吻しかけると、トメリーの恋人ハスタムが登場、彼女を奪い返す。一同恐怖の内に幕。
 第二場は牢獄、悲しみに凝立するトメリーとハスタムが踊り始めると、刀を手にした男が彼を連れ去る。ハスタムの処刑を暗示するfff のトゥッティ(「総譜Ⅲ」105頁、433小節)(オーケストラの打楽器用「パート譜」では6頁、490~497小節のsƒƒƒ のシンバルと続くティンパニの部分に該当)の響きに発狂したトメリーが、悲愴な舞いを舞ったのちに、倒れて息絶える。

【譜例3】小松清《トメリー物語》ピアノ譜Ⅰ 19頁

 先述した通り、完成楽譜が(パート譜以外は)残っておらず、スケッチの形のピアノ譜から類推するしかない。【譜例3】にみられるように、5連音符の混ざった音型がトメリーの踊りのモティーフであり、「マートンまた鞭をならす」「トメリー再び踊る」といったト書きが書き込まれ、舞台の動きを彷彿とさせる。オーケストレーションは、一部分から類推するに、かなり精緻に書き込まれている。小松清の名訳、リムスキー=コルサコフ『管弦楽法原理Ⅰ・Ⅱ』(1939、1950、創元社)の出版以前の作品だが、彼が基本的な技法を会得していたことが窺える。旋律はシンプルで異国趣味の香りづけは余り感じられない。

作品研究:《仏訳短歌九首》

小松清の印刷された数少ない作品のひとつに《仏訳短歌九首 Neuf Tankas》がある。これは1971年に日本作曲家協議会から出版された(JFC.71130 B4判 全20頁)。表題紙の説明によれば、「日本作曲家協議会が、文化庁の助成を得て会員の作品を広く海外に紹介するために作成したもの」という。
 裏表紙の次の頁に、「大いなる敬愛をこめて アルセーヌ・アンリ夫人に à Mme Arsène Henry en très réspectueux hommage」との献辞がある。その頁にはフランス語と英語のタイトルがある。フランス語は「Neuf Tankas / Traduits en français par Arō Naitó / Misen musique par Kiyoshi Komatsu 」。

 9 曲のタイトル(詩)は次の通り。
1.久方の光のどけき   C’est un jour de printemps (紀 友則)
2.何がなしに頭の中に Je sens dans ma tête (石川啄木)
3.何処やらに若き Quand il grésille au printemps (石川啄木)
4.大きなる何事もなき Une grande rose (北原白秋)
5.美しき夜の横顔 Cette ville là-bas (北原白秋)
6.やはらかき光の中に Même dans une lumière douce (北原白秋)
7.ちりからと硝子問屋の Les lanternes de verre poussiéreuses (北原白秋)
8.わが夢はおいらん草の Mon rêve est pareil (北原白秋)
9.麗らなれば童は L’enfant pleure (北原白秋)

以上の短歌9首のうち、6首が北原白秋作である。短歌の作曲について作曲家自身が次のようなコメント(要約)を残し、この作品への自負を表明している。
彼の代表作の一つといえよう。
・テキストは一高のフランス語の恩師、内藤濯[あろう]教授がパリ留学中に仏訳したもの。
・東大時代に「久方の…」の仏訳を同教授が示したで作曲した。
・残り8曲は6,7年後の病気回復期に作曲し曲集にまとめた。
・ストラヴィンスキーなどの仏訳短歌作品もあるが、日本人として作曲したかった。
・チェレプニンが来日の折に持ち帰ったこの曲はウィーンで演奏され、のちにパリやベルリンでも放送された。

 9曲とも1頁未満~ 2頁未満、ミニアチュア歌曲とでもよぶべき小品で、調性や書法が各々特徴をもち、短歌の簡潔さを生かして、「一筆書き」といった趣を醸している。
 例えば第1曲。〈久方の光のどけき〉は百人一首」定番の和歌。ヘ短調、全7小節。「リズムをやさしく刻んでdoucement rhythme」と指示され、先ずハ長調でのどかさを表すハープを模した導入、続いて伴奏の四声部の上声二部がモザイク状に花びらがひらひら散る様を主調の属調のハ短調で描き、主調を導く。「何故pourquoi」で突然、遠隔調のイ長調が現れ、すぐに変ロ短調から原調に戻る。この間、無窮動のモザイク音型が日本風の悠久な自然観を漂わせる佳品である。

【譜例4】小松清:《仏訳短歌九首》日本作曲家協議会(1971年)

小松清関連(作曲・作詞・指揮・ピアノ伴奏)のSPレコード

 興味深いジャンルと思われるのが、次表のSPレコードである。この表は、膨大なSPレコードの内の、小松清自身が作曲か作詞した楽曲の録音、彼が指揮かピアノ[伴奏]を担当したレコードを抜き出し一覧にしたものである(表記法はすべて原綴通り)。

小松文庫には、小松耕輔の所蔵したSP レコードは残されていないが、小松清が残した多数のSP レコードの内、清自身がその制作に何らかの関わりを持っていたSP が53枚も存在しているのである。なぜならこれらに、清の比較的若い時代の音楽活動が刻印されているからである。(残念ながらそれらの制作年はほぼ不明だがSP の時代は恐らく1950年代までである。)
 童謡作品 11点。
 新作民謡 9点(これは新民謡運動に若き小松清が積極的に参画していたことを物語っている)
 歌謡曲・歌曲(曲名から類推)9点
 小唄・船歌 8点
 校歌(東京音楽学校校歌、東高節を含む) 6点
 国民歌(編曲・指揮) 2点
 仏教歌 1点
 その他 7点
 中でも新作民謡と小唄の類いの作品が17点と圧倒的に多いのが目を引く。専門からすれば「西洋派」である清が、新民謡運動という時代の要請もあったろうが、かくも熱心に日本の伝統的な素材に関心を抱いていたことを記しておきたい。

小松清の仕事場

 小松清はなぜ生涯にわたり、フランス文学と音楽活動という「二足のわらじ」を履き続けたのだろうか。その最も大きい要因は15才年上の「音楽人」(こう耕輔は自らを評していた)の兄の強い影響だったのは疑いないだろう。耕輔の専門領域は明治期としては珍しい「フランス派」でもあった。十代で秋田から上京後に東京帝国大学時代まで、兄の耕輔の自宅に居候していたはずの清が、音楽のみならず、フランス語とフランス文化に傾倒していったのも、自然の成り行きだったろう。
 清のもう一つの特筆すべき行動は、先述の通り、最高のエリート・コース、東京帝国大学文学部佛文科に入学すると同時に、東京音楽学校(現在の東京藝術大学選科にも登録してピアノを学び始めていることだ。そしてさらに、この間にポーランド人ステファン・ルビエンスキに、また後に高名なドイツ人、クラウス・プリングスハイムKlaus Pringsheim(1883-1972) に作曲を学んでもいるのである。
 さらに、大学卒業後に東京高等学校(旧制)に任用されたのも、清のこの二つの方向性をさらに決定づけることになる。この東京高等学校は、1921(大正10)年11 月に設立された日本初の官立7年制高校で、4年制の尋常科と3年制の高等科という組織である。高等科では「文科」「理科」に加え、当時としては画期的な「丙類」というフランス語専修コースが設置されていた。「丙類」を教えることになった清は、(遺品の中にある多数の変色したノートに丹念にフランス語の綴りの練習や単語の意味を書き連ねていることから類推されるように、)フランス語の達人となっており、申し分ないフランス語教師に成長していた。また、東京高等学校の管弦楽団や合唱団の指揮者として活躍し、同校の校歌や名物となった《東高節》の作曲も手がけるのである。
 また、柔和な相貌、「春風駘蕩としたお人柄の君子人」(薮田義雄の人物評)の小松清は、設立当時からの自由でスマートな気風(イギリスのパブリック・スクールを当初から範としたといわれる)の東京高等学校(但し戦時中は軍国主義が横行したといわれる)の、申し分のない教師であったはずである。なおこの学校は1949(昭和24)年に新制の東京大学に吸収されて教養学部の前身となる。
 ところで(余談だが)、筆者が東京藝術大学音楽学部楽理科及び同大学院の学生時代に6年にわたり小松清先生に「フランス語上級」「フランス語原典購読」「フランス文学」等の講義で指導を仰いだ間、先生は、自身の音楽活動の作曲や演奏に関わる事柄に言及することは、一度たりともなかった。ここではフランス語とフランス文化の教師に徹していたのである。それは先生の奥床しいお人柄のせいだったのか、音楽家の集団の中で敢えて公言を避けたのだろうか。
 小松清という多才な文化人の生涯は、東京大学と東京芸術大学の大学人という安定した平穏な日々の中で、「日曜画家」のように作曲やコンサート企画、(特に若い時代に)指揮やピアノ伴奏に勤しむという二面性に彩られている。

また、小松清のもう一つの知らざれる業績に、近代フランス歌曲の訳詩という仕事があった。古澤淑子が創設に関わった「フランス歌曲研究会」*4や、中村浩子の主催する「コンセールC」*5など、フランスの詩と音楽を専門とするグループにおいて、彼の名訳になるボードレールCharles-Pierre Baudelaire(1821-67)やヴェルレーヌPaul Verlaine(1844-96)など、数々の詩人の数えきれない多くの美しい翻訳が、長く重宝に使われてきたことは特筆に値するだろう。遺品の大きな部分を占める書簡の中には、古澤淑子を始め、フランス音楽の権威のピアニスト、井上二葉など、多くの音楽家とのやり取りをたどることが出来る。実は小松清の名はこの領域において、秘かに深く名を留めているのである。
 小松清の満州における文化活動や新民謡運動との関わり等については、また作曲活動の全貌については、稿を改めねばならない。
 最後に記しておきたいのは、彼の音楽の仕事場は「日曜音楽家」の域を超えた本命の「場」だったかもしれない、ということである。
 小松清研究は端緒についたところである。
(2017.2.6)

注記
Ⅰ*
*1 1988(昭和43)年より所蔵。上野学園大学図書館(東京都台東区東上野4-24-12)の保存書庫に保管されている。 
*2 牛山充、井上武士、小出浩平編『小松耕輔作曲選集』(小松耕輔作曲選集刊行会、1956)巻末13-15頁。ただし死の10年前までの記録。
*3 高野喜代一編著『小松音楽兄弟』小松兄弟音楽顕彰会、1992、336-337 頁、小松兄弟とは、最年長(次男)の耕輔、四男の三樹三(1890-1921)、六男の平五郎(1896-1953)、七男の清(1899-1975)の音楽に携わった4人(同書254 頁の「小松家系譜」参照)。
*4 畑中良輔「小松耕輔・本居長世・梁田貞・中山晋平とその作品」『日本歌曲全集2』1993、音楽之友社、巻頭(頁記載なし)
*5 全65冊の内訳は次の通り。明治45(大正元)年、大正2、3、7年の日記、大正11・12 年のフランス製agenda[小型手帳]、大正13-15(昭和元)年、昭和2-20 年の日記、昭和20-24、40年の小型手帳6冊、昭和26-28、30-32、34-40 年の懐中日記、昭和33-41年の当用日記、その他、自由日記(記述:昭和14-16、2・20-22、22-25、27-29、30-32年)5冊、小型ノート4冊[3冊はフランス製] なお、これら65冊の番号を付された一覧表が日本近代音楽館により作成されている。
*6 大正10年1月~5月末の日記をベルリン滞在中に紛失した小松は、『音楽の花ひらく頃』の199-308頁を、同年6月26日から書きだした「巴里日記」からの引用に当てる、と199頁に書き、以後帰国した大正11 年3月9日までを日記形式で書いているが、それに該当する日記帳ないしはノートは残念ながら見つからない。
*7 4冊のコピーは春田小百合氏の寄贈により、小松文庫の一隅に請求番号なしで保管されている。
*8 春田小百合(平成5年度入学生)卒業論文:『学校法人上野学園所蔵の小松耕輔自筆譜研究』(本文・附録全2冊)
*9 それらのカードのコピーが春田論文の附録巻に掲載され、546 枚のカードが上野学園大学図書館に保管されている。これらの春田作成カードに基づき、1997 年以降に同図書館の正式番号入りカードが作成され、小松の自筆譜は小松文庫において「市民権」を得た。
*10 小松耕輔の校歌については、佐藤晃之輔編著『小松音楽兄弟 校歌資料』において、167 曲(現行校歌90、旧校歌77)が全国レベルの調査の成果として掲載されているが、小松文庫の自筆譜はその数を遙かに超えている。
 しかし自筆譜にはタイトルが付されていない曲が相当数あるので、自筆譜の校歌の総数を突き止めることは困難である。
*11 伊藤あゆみ(平成6年度入学生)卒業論文『小松耕輔の自筆譜・出版楽譜に基づく研究』(本文・附録全2冊)
*12 それらのカードのコピーが伊藤論文の附録巻に掲載され、764 枚のカードは上野学園大学図書館に保管されている。
*13 一覧表のコピーを上野学園大学図書館に寄託してある。
*14 1910(明治43)年第1巻から1915(大正4)年第6巻までが全て製本されている。ただし傷みの進みは激しい状態である。
*15 『音樂の花ひらく頃──わが思い出の樂壇』58 頁 なお文中の小林愛雄[あいゆう](1881-1945)は小松らと苑会を結成し《羽衣》を上演。1916 年に雑誌『音楽と文学』同人、浅草オペラの訳詩を多く手がけた。
*16 『懐しのメロディー』 66 ~ 67 頁
*17 『明治の作曲家たち』(奏楽堂特別展「明治の作曲家たち~音楽の花ひらく頃~」資料集 日本近代音楽館、2003)の項目「小松耕輔」にも「楽譜焼失」と記載(51 頁)。
*18 田中みや子氏所蔵の自筆袋 Ⅷ- (1):自筆譜 五線紙ノート(文房堂製8段) 22×18 鉛筆書き 38 頁 341小節
*19 同 Ⅷ-(16):自筆譜 五線紙(共益商社樂器店製10段) 1枚二つ折 2fs. 30×21.5 鉛筆書き 3 頁 15小節 
*20 収穫台本 小松文庫の自筆袋Ⅵ:Ⅵ/(2)/Ms 33 台本(手書き) 和紙製400字詰め 原稿用紙袋とじ(表紙厚手和紙) 24×16.5 墨筆(朱筆で加筆) 86p 
*21 収穫声パート譜 小松文庫の自筆袋Ⅵ:Ⅵ/(2)/ Ms-33-1 自筆譜(声のパート譜) 五線紙(文房堂製16 段)1枚二つ折 0fs. 32.6×25.1ペン書( 歌詞は朱筆) 5頁
*22 収穫下書き総譜 小松文庫自筆袋Ⅵ:Ⅵ/(1)/ Ms-32 自筆譜(下書き総譜)五線紙(文房堂製16 段)1枚二つ折 43fs. 32.5×25 鉛筆書き( 表紙は墨書) 170頁
*23 収穫清書総譜 小松文庫自筆袋Ⅵ:Ⅵ/(2)/ Ms-33-2、同3、同4、同5(全4冊) 自筆譜(清書用総譜)五線ノート ペン書 各冊0p
*24 増井敬二『日本オペラ史』水曜社、2003、43 頁
*25 座談会「日本オペラ史 明治時代」(『日本のオペラの歩み』、「日本オペラの歩み」  刊行会、1962)8頁
*26 『日本のオペラの歩み』7-8頁
*27 前掲書 座談会「日本オペラ史 明治時代」において、小松は宮沢縦一の質問に対し次のように答えている。
 宮沢:それ[《オルフォイス》]については、いままで石倉小三郎先生ほかの方たちが、終戦後も「音楽」とか「シンフォニー」とかの雑誌や、その他のいろいろなものに詳しくお書きになっておられますが、これは小松先生はごらんになったんですか。
 小松:上野の音楽学校の本科1年のときですが、ちょうど7月で、暑中休暇で帰郷したから実際は見ていないが、前のリハーサルは見ている。
*28 この改訂稿では、旧の4分の4拍子が8分の6拍子に変更され、後奏も旧の7小節から4小節に短縮されている。
*29 4箇所計61小節に認められる。構成表中の「形態」欄の下線部分を参照。
*30 『懐しのメロディー』 58頁
*31 「歌劇《霊鐘》は[中略]愚劣極まるものにして、其の音樂としての價値は勿論、科白ともに何の感興もひかず。
 バタ臭き異形の僧がおづおづと、間拍子の抜けたるスリ足の動作など、あたかも奥山式機械人形よろしくの見得にて、[ 中略] 先年の『羽衣』の方 優れり」(68頁)
*32 『音樂の花ひらく頃』 89頁
*33 (? -1946)本名は周治、歌のパート自筆譜の表紙に「大野素人作哥」と書かれているところから、これも筆名と思われる。英文学者。
*34 『昭和の作曲家たち――太平洋戦争と音楽』みすず書房、2003、4頁
*35 『明治の作曲家たち』日本近代音楽館、2003、50-51 頁
*36 雑誌『音楽評論』創刊号[4月号]、1933
*37 エッセイ「巴里できいたコルトー」(『Demos』7月号、1952、6- 7頁)の最後で、「筆者・音樂研究家」と記されている。
Ⅱ*
*1 同姓同名のフランス文学者がいる。もう一人の小松清(1900-62)は、アンドレ・マルローAndre Malraux (1901-76)の研究家。
*2 上野学園大学学長室スタッフ(永田美穂、有村真美)、図書館スタッフ(佐久間牧子、高松章子)と共に通常の業務の間を縫って調査・整理に取り組んで現在に至る。
*3 フランス文学およびフランス語関係の多数の蔵書に関しては、内藤俊人上野学園大学講師により大まかな分類がなされ、上野学園大学校舎棟14 階の図書館書庫に仮置きされている。
*4 1953(昭和28)年に、17世紀から現代までのフランス音楽の紹介者として知られるソプラノ歌手、古澤淑子(1916-2001)を中心として結成され、関西を中心に域の長い活動を続けている。

*5 東京藝術大学におけるフランス派として活動を続けてきたメゾソプラノ歌手、中村浩子(1928-)が主宰する、フランス歌曲の研究・演奏を続けるグループ。

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