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「祖父・小松耕輔」田中 みや子(小松耕輔長男の長女)

 耕輔は一男三女の子供に恵まれ、それぞれが家庭を持ち、二男十女の孫がおります。わたくしは長男・盛廣の娘でございます。
 私ども孫たちにとって祖父・耕輔はこの写真そのまま、謹厳実直で近寄り難く、怖いような、どちらかと言えば煙たい存在でした。食事の時なども、おしゃべりをしていると「これ! 静かにしなさい」と良くたしなめられたものです。晩酌を欠かさず、相撲の中継を見ながら、静かに盃を傾けていました。

 秋田の産ですからお酒は好きで楽壇の三大酒豪にも名を連ね 楽壇仲間との野牛会(のもうかい)をはじめ、詩壇や芸術家、異分野の方々との会等、それぞれの常連であった、或いは無勤であったと自らが語っているほどです。“ 小松さんは酒の飲み方が立派で、酒席でのエチケットの理想的な人”“ 酒が回って来ると低い声で都々逸や、二上り新内も出て来る。浅酌低唱の味を知る粋な人” と評されています。飽くまで静かに、程良く、ゆったりと楽しんだ様です。

 子供達にとって耕輔はどんな父親であったかと、長男・盛広の小学生の頃の作文集を開いて見ました。そこには、学校での出来事や友達と遊んだこと、三人の妹たちの事、母・ひろや祖母・トミと出掛けた事等、日常の様子がつづられています。<清さんに魔術を教わった><博覧会に連れて行って貰った> 又、<五郎さんに英語の発音をさらって貰った>などとも有ります。25 歳で結婚後ほどなく、耕輔は秋田から両親、弟達を呼び同居して居り、大家族でした。当時は学生だった清や、五郎さんこと・平五郎は耕輔の弟で、盛広にとっては12~3歳年上のお兄さんの様な存在であった様です。しかし、作文に父親・耕輔は登場しません。

 耕輔は学習院の教職にありながら、音楽普及会等自らが興した事業に加え、引き受けた役職もあり多忙を極めていました。そんな中でも、当時音楽学校では英語しかなく、語学の力不足を痛感したと外国語学校夜学のドイツ語専科に学び、その後、近代フランス音楽にふれたいとやはり夜学のフランス語専科でも学びます。さらに「帝大文科の心理学、美学概論の聴講が許されたのは幸いであった」「根元博士(秋田出身)の易学は痛快で身にしむ講義であった」と貪欲なまでに学び、喜びとしています。
 それでも尚「いろいろな事に関係していて、充分勉強をする時間がない」「今なすは我がなす業か省みて・・」と悩み、「全てを投げ打って創作に没頭すべし。これ汝の生くる途なり。明日ありと思うなかれ。無常は迅速なり」とも。ですから、子供達と出かけたり、一緒に何かをするような時間は、ほとんど無かったのではないでしょうか。

 ただ、耕輔が三年間の欧米留学の留守中に父・耕輔に触れた作文が有ります。<二階に上がると一番先に目に付くのはシュトラウスの額、それからお父さまの机、ベートーベンの額。そして、ピアノとオルガンがある。ピアノの上には音楽の本が乗っている>と続きます。留守中でも書斎は音楽に情熱を傾けている父を身近に感じる場所であったのでしょう。

 また、<来年はお父様が帰っていらっしゃいます。お父様も帰っていらっしゃる事を楽しみにしていらっしゃるのに違いありません。お父様がお暇な時にはパリのお話を知っているだけ、聞かせていただきたい。そして、絵ハガキなど頂いて裏に説明を書いておきます。それを、大切にしまって置きたい>と書いています。

 耕輔は留学中にはもちろん、日頃から、地方に出掛けた時にも、妻や子供達に良く絵ハガキを送っていたようです。そんな便りを心待ちにしていた子供たちの様子、又、帰ると話を聞かせていた父親、耕輔の姿を見る事が出来ます。

 祖母・ひろも音楽の教師で、結婚後も東京女高師付属の高女と小学校で15 年程、教師を続けました。学校が引けた後も家でのおけいこ、出稽古、講習会の講師、自身の学びと毎日がせわしく、「試みに学校以外の時間割を作った」と。
 この間、一男三女を生み育てた祖母の日記からは、子供が熱を出したり、留守を預かる子守りさんが急に辞めたり、今も昔も変わらない働く母親の苦労が伺われます。
 ちなみに明治44年の夏休みの日記には、< 8月1日主人は東北、北海道地方へ演奏旅行に出発> < 8月9日第一子長男・盛廣大学病院にて誕生。9月中、学校を欠勤して産後の静養をなす> < 10月1日初めて登校。まだ、ふらふらしそうなり>と記されています。
 耕輔は後に、此の頃を振り返り、“ 妻・ひろと二人で一生懸命音楽教育の為に働いた” と語って居ます。夫・耕輔とその大家族を支えた妻・ひろは、耕輔にとって“ 共に音楽教育に携わる同志” でも有ったのでしょう。

 祖父のかたわらには、書斎にも茶の間にも虫メガネがありました。幼いころに眼病を患い著しく視力が減じ且つ近視であった為、メガネだけでは視力が足りなかったのです。楽譜に顔を近付け、直径10センチ程の大きな虫メガネを覗き、譜面を見る祖父の姿を思い出します。

 祖母の日記には、“ 今日は主人の代書をす” あるいは、“ 原稿書きのお手伝いをするので、毎日書いてばかり” ともあります。また、包装紙の裏などに歌詞原稿を大きく筆書きした物が残っています。見やすいようにとの祖母の手によるものでしょう。祖母が新聞の連載小説を毎日読み聴かせ、じっと目を閉じて聴いている祖父の表情は穏やかで、満足げでした。
 祖父が亡くなったのは昭和41年2月3日、その年の元旦の日記です。

    初春や まず思うこと 親の恩
 今年は82歳 両親より長命である。健康である。
 眼、耳、とにかく用を弁ず。手足不自由なし。
 他人にうらまれることなし うらむことなし。   上々吉

 眼病には終生悩まされ不自由することも多かったであろうと、祖父の苦労をいくらかでも察しているつもりでいたわたくしには、ちょっと意外でした。その潔さに脱帽です。
 子供の頃は煙たい存在であった祖父を、今、この歳になって振り返り、当時の写真など見ますと、まっすぐで穏やかで、やさしいまなざしの人だったと思えるようになりました。

 探究心旺盛で、研究熱心、努力を惜しまず、凛と前を向いて潔く・・・
 うらまれることなきよう、うらむことなきよう
 わたくしもそのように・・・と。

 今、改めて祖父・小松耕輔の生き方から学んだことです。

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