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「小松耕輔の業績」四反田 素幸

 小松耕輔(1884 ~ 1966)は、秋田県内では由利、矢島、角館、横手、横手城南、雄物川各高校などの校歌の作曲者として知られている。しかし日本における最初の歌劇『羽衣』を作曲したことや、日本で最初の音楽コンクールを開催したり、音楽の教科書や啓蒙書など多数の著作によってクラシック音楽の普及に貢献したこと、さらには昭和天皇の学習院初等科時代の唱歌指導の担当であったことや、昭和20年代には当時の皇太子、即ち現在の天皇陛下に「音楽」をご進講したことなど、特色ある業績を残した音楽家であったことを知る人は少ない。
 小松は明治34年(1901年)に16歳で上京し、東京音楽学校(現東京芸術大学)の選科に入り、翌年予科に入学。そして本科に進んだが、当時、東京音楽学校には作曲科はまだ無く、作曲志望であった彼は作曲をピアノ科の外国人教師に学んだ。
 私は小松が本科在学中の21歳の時に書いた歌劇『羽衣』の楽譜を見て驚いた。作曲を学ぶ生徒の最初の学習課程である「和声学」の古風な書式で書かれていて、音楽が讃美歌風なのだ。出版された楽譜には森鴎外による次のような序文が付けられた。
 ことし東京音楽学校の業を卒へたる、出羽の人小松耕輔氏、歌劇羽衣一篇を著して世に問はんとす。韻語と声楽とを併せ好める小松氏は、詩と楽との調和をもて畢生の業とせんと志して、こは只試みにものしつるなりとぞ。もとより我が国には例なきことにしあれば、初めより全き効果を収め得んことを期すべきにはあらず。昔伊太利にて新音楽(NUOVA MUSICA)のなりいでけん時のさまなど偲ばれて、その山口のしるきを愛づる心ばせを、繙くひとに知らせばやと、一言書き添ふるにこそ。
(小松耕輔著『音楽の花ひらく頃』より)

 西洋音楽に造詣が深かった鴎外の評価は正鵠を射ていると思う。日本には歌劇作曲の前例はないのだから、最初から完璧さを求めても仕方がない。まずは小松の試みに注目しようではないかと言うのだ。西洋音楽の様式による歌曲や歌劇の作曲における日本語の詩の韻律と旋律との関係性の探求は始まったばかりである。鴎外が「韻語と声楽とを併せ好める小松氏は、詩と楽との調和をもて畢生の業とせんと志し」と書いた通り、小松の作曲は歌曲が中心となっていく。
 『羽衣』の初演の3年前、明治36年(1903年)には日本人によって初めてオペラ『オルフォイス』が上演され、画期的な出来事として注目されていた。『音楽の花ひらく頃』には、当時の歌劇熱に刺激されて同人組織が結成され、第一回公演のために小松が『羽衣』を作詩作曲することになったとある。初演は超満員だったそうだ。
 『羽衣』の作曲から14年後の大正9年(1920年)、小松はパリに留学する。『荒城の月』や『花』の作曲で知られる滝廉太郎はドイツのライプツィヒに留学し、また小松の後輩で、『赤とんぼ』『この道』で知られる山田耕筰や、同じく後輩で、後に東京音楽学校教授として多くの優れた作曲家を育てた信時潔らはベルリンに留学した。ドイツ志向が非常に強かった時代に、小松はなぜ留学先にフランスを選んだのであろうか。
 明治・大正期の日本ではドイツ・オーストリア音楽が主流ではあったが、フランス音楽も演奏されていた。前述のドイツ人作曲家グルックの『オルフォイス』より前に、日本で最初に外国人によって演奏されたオペラはフランス人作曲家グノーの『ファウスト』であったし、マスネやサン=サーンスの作品など、同時代にフランスで生まれた曲も日本では演奏されていた。明治42年(1909年)、東京音楽学校のピアノ教師としてアメリカ人のルドルフ・ロイテルが着任し、リサイタルでドビュッシーの作品を取り上げた。音楽批評家としても活動していた小松は、リサイタルの批評を自らが編集主事を務めていた音楽誌『音楽界』に掲載するのだが、この批評はドビュッシーの名前が日本の音楽批評に出てくる最初期のものとして注目される(佐野仁美著『ドビュッシーに魅せられた日本人』)。小松は研究科でロイテルに師事し、また知人の内藤濯(『星の王子さま』の翻訳者)からもフランス音楽の情報を得ており、内藤は近代フランス音楽に関する記事やフランス歌曲の訳詩を『音楽界』に寄稿していた。そして同年、小松は最初の編著『名曲新集』を出版し、この曲集について「フランスの作曲家たちを紹介した点で特色があった」と述べている。小松は早くからフランス音楽に強い関心を示し、その音楽に触れる機会や情報を、十分ではなかったかもしれないが持っていたのだった。パリ留学にはこういった背景があった。
 前掲の『ドビュッシーに魅せられた日本人』には「明治末期に小松耕輔によってフランス音楽をドイツ音楽に対置する言説が生まれた」とある。小松は、ドイツ音楽は哲学的、フランス音楽は純芸術的で絢爛豪華という見方をしていた。日本の音楽界にはこの対置する見方に沿うように、ドイツ志向とフランス志向があるように思われる(それは日本だけではないかもしれないが・・・)。戦後の日本の作曲界をリードした黛敏郎や矢代秋雄、三善晃らを育てた池内友次郎は、小松よりも暫く後の昭和2年(1927年)にパリに留学している。池内はパリ音楽院でフランスの技法を徹底的に学び、東京芸術大学の作曲科の教授となって以降、フランス志向の流派が形成されていく。門弟の黛、矢代、三善らはパリに留学し、その後に続く世代の作曲家も同地に留学する人が少なくない。
 雑誌『音楽芸術』昭和33年7月号に掲載の「作曲家訪問・小松耕輔」には、小松はパリでは「ハーモニーをフォーシェについた。このフォーシェという先生には日本人の留学生がその後沢山習った」と記されているが、池内がパリでハーモニー(和声学)を師事した人物は正しくフォーシェであった。池内がパリ音楽院に入学する前に、フォーシェに個人的に師事することになった経緯について、池内は「パリに着いて、すぐポール・フォーシェという先生のところへ行きました。紹介状をもらっていたので・・・」と述べており(キングレコード『池内友次郎の音楽とその流派』付録冊子)、紹介状が小松によるものであった可能性が高い。現在、日本ではフランス流の和声学が定着しているが、その始まりは小松のパリ留学であったのだ。
 小松は留学から帰国した翌年、欧米の音楽事情を自身の外遊経験を交えて著した『世界音楽遍路』を出版し、その3年後の昭和2年(1927年)にはフランス音楽だけに焦点を当てた大著『現代仏蘭西音楽』を書き上げ、当時のフランスの主要な作曲家と先端的な音楽芸術の論文を紹介している。『現代仏蘭西音楽』には新芸術に対する小松の理念が表れている印象的な箇所があるので引用しておく。当時の新しい傾向の作曲技法の特徴について触れた後で次のように述べている。
 無論今日でも、是等の凡ての運動に反抗してをる澤山の音楽家がをる。しかし事実は日、一日と其等の人達でも此の新傾向に同化されつゝあることは否むべからざる事実である。故に習慣的に古来の法則に安住せんとする人々は、用捨なく取残されてしまふ。
 又現代の音楽を鑑賞しようとする人々も同様である。在来の音楽を聴くと同一の態度を以て臨んだならば恐らく現代楽の眞の価値を知ることは六つかしいであらう。何故かならば、作曲者は既に凡ての古き習慣の埒外に立つて、新しい外光のもとにペンを執ってゐるからである。(原文のまま)
 小松は日本の作曲界におけるフランス流派の先駆けであり、彼の熱心な啓蒙活動によって、昭和の初めには近代フランス音楽に対する理解が進んだのだった。
 小松がパリに留学していたのは1920年から1923年までで、エコール・ド・パリと呼ばれたモディリアーニ、ユトリロ、シャガール、藤田嗣治ら個性的な画家たちが活躍していた時代であった。音楽ではドビュッシー没後の反印象主義、新古典主義を掲げた若手作曲家のグループ「フランス六人組」が台頭する時代になっていたが、ラヴェルはまだ40代半ばで意気盛んであった。またディアギレフ率いるロシア・バレエ団がファリャの『三角帽子』やストラヴィンスキーの『プルチネルラ』などの話題作を相次いで初演していた頃であった。小松は留学中、精力的に演奏会を聴いて回り、これらの新芸術が次々に生み出されていく「レ・ザネ・フォル(狂乱の時代)」の熱気を肌で感じることが出来たのだ。なんと素晴らしい体験であったことか。
『音楽の花ひらく頃』には「巴里日記」として、パリ滞在中の様々な出来事が記されているが、これによると小松は薩摩治郎八と度々会っている。薩摩は巨万の富を築いた大富豪の孫で、己の美学を貫き通すために、祖父と父が残した膨大な財産を一代で使い果たしてしまった人物である。薩摩はパリの芸術家たちの庇護者であり、特に藤田嗣治との関係は良く知られている。小松と薩摩が会ったのは大正10年(1921年)で、小松は36歳、薩摩はなんとまだ20歳であった。薩摩の父は、薩摩の妹がピアノの勉学のためにパリ留学を希望した時に、小松に身元引受人を頼んだのだった(鹿島茂著『蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝』)。薩摩はフランスに魅せられ、パリでの交友の輪を広げていくが、その起点が小松であったことは実に興味深い。なぜなら薩摩は日本の近代フランス音楽の受容と日本の作曲のモダニズムの形成に関わる画期的な出来事をこの後仕掛けることになるからである。
 薩摩は小松と出会ってから4年後の大正14年(1925年)に、ジル=マルシェックスというフランス人ピアニストを私財を投げ打って日本に招聘し、6 夜に渡るリサイタルを帝国ホテルで開催する。日本の聴衆は、この時初めて本格的なフランス音楽の演奏に接し、大きな衝撃を受ける。小松によれば「曲目の多くは日本ではかつて演奏されたことがないもの」であった。ジル=マルシェックスの演奏会はその後も開催され、ドビュッシーやサティの他、ラヴェル、ミヨー、プーランクら当時現役で活躍していた作曲家たちの作品が演奏され、同時代の日本の作曲家たち、例えば清瀬保二や松平頼則らに強烈な印象を残した。そしてその後、昭和5年(1930年)には清瀬や松平ら16名によって「新興作曲家連盟(現在の日本現代音楽協会)」が結成されることになる。彼らはドイツ・アカデミズムから離れ、フランス印象派の音楽に日本人の音感覚との近親性を見出し、印象派の技法と日本的抒情の表現との結び付きを試みるようになるのである。
 小松はこの頃、大正の終わりから昭和の初めにかけて、後世に重要な影響を与えることになる二つの活動を開始する。一つは作曲家の著作権擁護のために「作曲者組合」を組織したことだ。小松は日本では著作権の観念が極めて低いと感じていた。作曲者組合はその後「大日本作曲家協会」となって小松は総務理事を任されるのだが、著作権使用料があまりに低額過ぎるとして放送局とやり合っている。大日本作曲家協会は昭和14年(1939年)には「大日本音楽著作権協会(現在の日本音楽著作権協会)」となり、小松は「これでわが国の音楽著作権がようやく確立し安定した」と述べている(小松耕輔著『わが思い出の楽壇』)。
 もう一つの活動は「国民音楽協会」を設立し、日本で最初の音楽コンクールを開催したことである。小松は外遊中に欧米各国で音楽コンクールが盛んに行われているのを見て、日本にも音楽の普及と向上のためにはコンクールが必要と考え、その第一回目を昭和2年(1927年)に「合唱大音楽祭」として開催した。小松は「合唱コンクール」という名称にしたかったらしいが、反対意見があって「合唱祭」となったらしい。当日のプログラムに小松は「音楽の社会化運動を図り、更にその他の諸事業、例えば国民音楽を樹立するための作曲奨励、新進楽人の紹介、音楽上の展覧会、演奏会、講演会等を次々に開催したい考えであります」と記している(『わが思い出の楽壇』)。「国民音楽協会」と名付け、また事業として「国民音楽を樹立するための作曲奨励」を挙げているところを見ると、小松の頭の中にはサン=サーンスが創設し、フランス人による作曲の奨励とその作品の演奏を目的としていた同じ名称の国民音楽協会のイメージがあったのかもしれない。そして昭和6年(1931年)には時事新報社主催の「音楽コンクール」が始まり(小松は創立委員の一人)、ピアノ、ヴァイオリン、声楽、作曲の部門ができる。これが現在の「日本音楽コンクール」に発展していく。また国民音楽協会の方は昭和23年(1948年)に全日本合唱連盟となり、小松は初代理事長に就任し、同年、第一回目の「全日本合唱コンクール」が開催される。
 著作権にせよコンクールにせよ、音楽の世界で今では当たり前のように考えられているが、これらは小松が取り組み始めたものだ。ちなみに「コンクール」はフランス語である。
 さて作曲家としての小松の作風であるが、近代フランス音楽を志向していた人にしては古典的で、そこからはみ出すようなところがないことについては不思議な感じがしないでもない。小松が著書『現代仏蘭西音楽』に記した「習慣的に古来の法則に安住せんとする人々は、用捨なく取残されてしまふ」という言葉と、このような彼の作風をどのように結び付けて考えればよいのか、私は正直言って戸惑いを覚える。
 しかしながら小松の足跡を辿り、彼が行った様々な活動の全体を俯瞰して見ると、日本が単なる西洋音楽の受容から独自に発展してゆく過程の重要な場面において、彼が率先して新しい種を蒔いていたことが分かる。小松の出発点は作曲であったが、彼の偉大なところは関心をそこだけに限定せず、生涯に渡り広い視野をもって社会的活動を続け、蒔いた種を育てていったことだと思う。現在の日本の音楽文化の隆盛を考えると、その功績は誠に大きいと言わねばならない。

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