プロフィールと業績

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 小松耕輔は、1884(明治17)年、秋田県由利郡玉米村(現在の由利本荘市東由利舘合)で生まれました。

 音楽家を目指して上京した耕輔は、作曲家、音楽教育家、評論家として活躍し、1906(明治39)年、日本で最初のオペラ「羽衣」を作曲します。音楽をもっと身近なものにするため、日本ではじめて合唱コンクールを開いたり、すべての日本人が西洋の音楽を楽しむことができるように活動したりしました。さらに、音楽家たちの活動を支えるために、作曲家組合を作り、著作権への理解を得られるように力を尽くしました。

耕輔が愛したふるさと

 戦国時代、現在の由利本荘市からにかほ市にかけた由利地域の周辺は「由利十二頭」と呼ばれる豪族に支配されていました。この豪族の一つである玉米氏の城下町として栄えたので玉米村と呼ばれました。
 標高713mの八塩山からは、四季を通じて豊かな水が流れ、人びとの生活と田畑を潤しています。麓で湧き出す「ボツメキの水」は名水として知られ、ポリタンクを手に多くの人が訪れています。恵み多き自然と歴史ある玉米の地は、豊かな文化と歴史を育て、逆境でもあきらめず、強く、しなやかな精神を人々の心のなかにつくりあげました。

道の駅「東由利黄桜の里」から望む八塩山

両親・兄弟たち

 旧玉米村の集落の中心部に大物忌神社があります。境内の東隣に、村長や群会議員を務めた小松平蔵(1853~1922)の屋敷がありました。豪族・玉米氏の重臣の子孫と伝わる由緒ある家です。耕輔は、小松平蔵とトミ(1860~1936)の間に生まれました。第一子は小さい頃に亡くなっていたので、両親は耕輔の誕生をとても喜び大事に育てました。

小松 平蔵
トミ

 父も母も勉強熱心な人で、耕輔は小さい時から両親のそばで和歌や漢詩を学びました。
耕輔には3人の兄弟がいます。三樹三、平五郎、清です。弟たちもみんな音楽に関係する仕事をしたので「小松音楽兄弟」と呼んでいます。

耕輔を支えた人々

音楽の道に導いてくれた・木内喜七

 1891年(明治24年)4月、耕輔は地元の舘合尋常小学校に入学します。当時は珍しい3階建てバルコニー付きの洋風建築の学校でした。両親は、耕輔にできるだけ多くのことを学ばせてやりたいと思い、さらに上の高等小学校に進学させることにしました。舘合には尋常小学校しかなかったので、玉米村から20キロほど離れた矢島高等小学校に進学します。現在の由利本荘市矢島町にある学校です。耕輔は祖父母の家に下宿して学校に通いました。

 矢島高等小学校で耕輔は、はじめてオルガンの音色を耳にします。オルガンを弾いていたのは、秋田師範学校を出た当時33歳の教師・木内喜七先生でした。耕輔は放課後も先生に演奏をねだって何回も弾いてもらったり、歌を歌ったりしました。いち早く耕輔の才能に気づき、音楽の道に進むよう両親に進めたのが木内先生でした。これにより耕輔は日本の音楽教育の最高峰である東京音楽学校(現在の東京藝術大学)へ進学することになります。木内先生との出会いがなければ耕輔は音楽の道に進まなかったかもしれません。

舘合尋常小学校
大正時代初期のオルガン

進学する耕輔を助けてくれた・畠山三郎

 小松家には当時6人の弟と妹がいました。両親は耕輔だけではなく、他の子供達の教育にも出費を惜しみませんでした。学費のことで家計が苦しくなっていても子どもたちのためを一番に思ってくれていたのです。耕輔が進学するとき、父・平蔵は親しくしていた畠山三郎に相談して学費を貸してくれるようお願いしました。誰もが食べるだけで精一杯の貧しい時代でしたが「才能のある子どもに勉強させてやることは、自分たち大人の責任だ」といってすぐに協力してくれました。耕輔は一生恩を忘れませんでした。

音楽家としての小松耕輔

 小さい頃、学校で初めて見たオルガンに心を奪われた耕輔は、音楽の道に進みたいと決めました。17歳のとき、耕輔は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入り、22歳で本科を卒業しました。次に、ピアノを学ぶために研究科に進み、同時に学習院大学で音楽を教え始めました。

明治23年当時の東京音楽学校

 耕輔が21歳のとき、歌劇「羽衣」の作曲をしました。これは日本人がつくった最初の歌劇(オペラ)といわれています。西洋音楽を日本人が楽しめるようにしたいと考え、日本の物語を題材にした歌劇をつくりました。

オペラ「羽衣」の1場面

著作権について

 私たちは生活する中で、テレビをみたり、音楽を聴いたり、本を読んだり、美術を鑑賞したりしています。私たちがみているこれらの作品は、作った人がいて、それぞれの考えや気持ちを作品として表現したものです。
 これらの「表現されたもの」を「著作物」といい、著作物を作った人を「著作者」といっています。そして法律によって著作者に与えられる権利を「著作権」といっています。
 法律では権利の内容をそれぞれの利用方法によって様々な権利をきめ細かく定めています。勝手に使ったり、変更したりできないように守っているのです。
 著作物を利用する場合には、利用する前に許可をもらうことが必要だったり、使用料を支払ったりする必要があります。

作曲者組合を組織

 耕輔は作曲家の著作権を守るために「作曲者組合」をつくりました。当時、日本では著作権について知られていませんでした。作曲者や作詞者の名前をあきらかにしないまま、童謡や合唱曲を放送することがあり、使用するときの報酬もとても安いものでした。作曲者の努力や苦労にあった使用料が支払われていなかったのです。耕輔は、組合の先頭に立ち、著作権使用料があまりに安すぎると放送局と根気よく話し合いを重ねました。耕輔の働きかけのおかげで著作権使用料がよくなり、作曲家の権利も守られることになりました。これは音楽文化発展のために重要なことでした。
 「作曲者組合」は「大日本作曲家協会」と名前が変わりますが、昭和14年(1939年)には「大日本音楽著作権協会(現在の日本音楽著作権協会(JASRAC))」となりました。

耕輔の功績と受け継がれる思い

コンクールの開催

 耕輔は、欧米各地で音楽コンクールが盛んに行われているのをみて、日本にもコンクールが必要だと考えました。音楽の普及と向上のために「国民音楽協会」をつくって、昭和2年(1927年)に「合唱大音楽祭」を開催しました。これが日本で最初の音楽コンクールです。耕輔は「合唱コンクール」という名称にしたかったのですが、反対意見があって「合唱祭」という名前になりました。
 現在、様々なところでコンクールが行われていますが、その基礎をつくったのが耕輔でした。

耕輔の尽力で定着したNHK合唱コンクール

玉米中学校のピアノ

 昭和28年、玉米中学校では新しいピアノを用意する計画がありました。当時、校長先生だった菊地一男は、せっかくピアノを購入するならば、小松耕輔先生に良いピアノを選んでもらいたいと考え、小松先生にピアノを選ぶ協力をお願いしました。昭和28年5月6日、菊地校長先生は、耕輔と浜松市に出かけ、購入するピアノを見に行っています。
 ピアノは今も大切に保管されています。

音楽祭と顕彰活動

 1978年(昭和53年)に「小松音楽兄弟音楽顕彰会」が設立しました。顕彰会では、毎年、音楽祭を開催したり、記念碑をつくったりして小松耕輔や耕輔の兄弟たちの功績を後世に伝えるため活動を行っています。毎年開催される音楽祭では、地元の小・中学校、地域住民が参加し、小松4兄弟にちなんだ曲を合唱します。現在は、会場を由利本荘市文化交流館「カダーレ」に移し、市民音楽祭としてこんにちに受け継がれています。

会場をカダーレに移して続く市民音楽祭
小松音楽兄弟の顕彰碑
参考文献発行ダウンロードファイル
西洋音楽の伝道師
~小松耕輔物語~
小松耕輔音楽兄弟顕彰会PDFファイル
(12.7MB)
小松耕輔生誕130年記念誌
(一部抜粋)
小松耕輔音楽兄弟顕彰会
由利本荘市教育委員会
PDFファイル
(18.1MB)
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