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「小松耕輔の時代と人脈」小林義人

はじめに

 ご当地に来たのは10年前の今頃。2014年の6月末です。新聞社を定年退職して、OBの再雇用、嘱託記者として3年9か月、ここでお世話になりました。楽しい思い出しか残っていません。
 その年の11月15日。ここカダーレで開かれたのが「小松耕輔生誕130年市民音楽祭」。恥ずかしながら、小松耕輔という音楽家を初めて知った次第。顕彰会長で小松家現当主の小松義典先生にいろいろとお教え頂きました。それが縁で一昨年、評伝漫画の原作を手伝い、評伝そのものまで書かせて頂いた。得難い経験で、感謝にたえません。そしてまた今回のお招きとなりました。重ねて感謝です。

《洋楽の伝道師》
 そこで、もう一度、自伝や日記を読み直しました。そして、思いを一層、強くしました。
「耕輔の音楽家としての原点は何か? それは『音楽への深い感謝』なんだろう」と。
 この人は、生涯、目で苦労します。視力が弱い。広子夫人の日記によると、67歳でなお、手術しているくらい。その苦労たるや察するに余りあります。

フランス留学中の小松耕輔からの年賀状

 5歳で東京の眼科医、夏目漱石も通った井上眼科に入院するも、完治しない。「失明するのでは」と恐れおののいたことも多々。そんな時、支えてくれたのが音楽との出会いだった。暇さえあれば明笛を吹き、手風琴を弾き、オルガンを聴く。音楽に首までどっぷり浸かった子供時代。だったが故に、目の辛さを忘れられることが出来た。そばに音楽があったから何とか耐えて来られた。
 音楽への感謝が、生涯、心の真ん中にある。今度は音楽の喜びと感動と幸せ、これを多くの人たちと分かち合いたい。心を豊かにしてあげたい。これが耕輔の音楽家としての原点なんだと思います。
 小松先生が付けてくれた耕輔のキャッチフレーズが「西洋音楽の伝道師」。評伝のタイトルにもなりましたが、実にうまい。音楽を教え、広め、世の中に定着させる伝道師。なるほど、小松耕輔には、高い志に見合うだけの教養があり、品格があり、優しさがあった。眼で苦労している分だけ、人の痛みがよく分かった。教養、品格、優しさ。三拍子そろった音楽家・小松耕輔。
 きょうは3つのテーマでお話します。①本日のコンサートに登場する5人の詩人たち②ふるさと、時代、蒔いた種③友との絆、家族の絆――。しばらくの間、おつきあい下さい。

<1>詩人たち

 詩や言葉は、曲を付けられて、新しい命、新しい魂が吹き込まれます。それだけに詩人と作曲家の関係は大切です。本日、田口先生に歌って頂く小松耕輔の作品は6曲。詩を書いた詩人は5人です。竹久夢二、北原白秋、西條八十、三木露風、室生犀星。大正、昭和の詩壇を代表する有名詩人たち、天才詩人たちです。
 この5人の詩人と小松耕輔との人間関係、つきあい、自伝に綴られた人物評などから、逆に、当時の楽壇や文壇における耕輔の立ち位置が浮かび上がります。平たく言えば存在感や信頼感です。

【北原白秋】(1885~1942)当日の演目:「泊り舟」「雀おどり」

北原白秋

 5人の中で最も濃密に付き合ったのは北原白秋でしょう。同い年です。初めて会ったのは1917年(大正6)5月27日。葛飾村の江戸川河畔の自宅を訪ね、渡し舟で対岸の料理屋へ。意気投合して大いに飲み、さらに白秋の自宅で飲み直す。きょう披露される「泊り舟」は、この時の江戸川の情景をうたった詩です。
「〽芦間出て見よ煙が上がる あれは時雨のもやひ舟 立つる煙は細々なれど やはり浮世の泊り舟」
 後にビクターでレコード化された時に、白秋が解説を書いています。
「葦の穂が川洲に揺れて、日暮れには舟から炊(かし)ぎの煙がたなびく。空には月が浮かぶ。小松耕輔氏の曲を得て日本のさびを伝えてもらった」(1938年2月)

 しかし、当時の白秋の生活ぶりは、そんな優雅な世界とはまるで裏腹、失意のどん底にあった。人妻との不倫で姦通罪に問われ逮捕。青衣に編み笠を被せられて、人妻ともども2週間、収監。社会的信用は地に落ちます。
 白秋を経済的に支えた実家の九州・柳川の造り酒屋は、既に火事で全焼。破産して久しい。白秋の家計は困窮の極みにあって、懐は寒い、世間は冷たい。
 そんな孤立無援の詩人を訪ねたのが小松耕輔、当時32歳。国立の東京音楽学校、現在の東京芸術大学を首席で卒業した若き学習院助教授。音楽雑誌や新聞に健筆をふるう若手の論客。そんな俊才が自分を激励する。詩を絶賛する。作曲を申し出る。白秋は嬉しかった。
白秋は50歳の誕生パーティーの壇上に、山田耕筰と一緒に小松耕輔を立たせて謝辞を述べる。 
 天才詩人の晩年は辛い。酒で糖尿病を患い、視力を失います。1942年(昭和17)11月2日、阿佐ヶ谷の自宅で死去。享年57歳。耕輔はいの一番に駆け付け、死に顔に別れを告げました。
 耕輔は自伝で白秋をしのびます。「白秋の詩は音楽的なリズムの点で特徴があった。詩の中に流れている音楽的要素は、すぐ汲み取ることが出来た」

【室生犀星】(1889~1962)演目:「砂丘の上」

 白秋とのつきあいの延長線にあったのが、本日のトリ室生犀星。金沢の人です。白秋に触発されて詩を創り始め、白秋を頼って上京し、白秋に励まされて、出世作「叙情小曲集」を出します。「生涯に間違いのなかったやつは碌な仕事をしない」と白秋の不倫をかばっています。
 「犀星は『叙情小曲集』の出る前からの知り合いで、同詩集には私の小曲『砂丘の上』が載っている」(2019年の耕輔の日記)
「叙情小曲集」を白秋は絶賛。「犀星に栄光あれ」と序文を寄せる。
 同詩集の中で耕輔が心を動かされ、曲を付けたのが「砂丘の上」。
「渚には蒼き波のむれ かもめのごとくひるがへり すぎし日は 波の彼方に死に浮かぶ 音もなく砂丘の上にうずくまり 海の彼方をこいぬれて ひとり ただひとり はるかに思い疲れたり」

室生犀星

 舞台は金沢北郊の金石海岸。犀星は19歳の時、金石の登記所に勤務。上京して詩人として一本立ちしたい。しかし、状況が許さない。思い悩んで砂丘にうずくまる。
 同じ詩集に広く人口に膾炙した詩があります。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても 帰るところにあるまじや」
 ふるさとへの愛着と弱き者への共感が犀星文学の真骨頂。耕輔も悲愴な覚悟を胸に16歳の冬、ふるさとを馬橇で出て東京へ。犀星のふるさと愛には、大いに共感したはず。

【竹久夢二】(1884~1934)演目:「母」

竹久夢二

 「母」は小松耕輔の代表曲。エピソードをひとつ。耕輔はフランス留学の2年前の1918年(大正7)7月、母のトミ、当時57歳をお伊勢参りに連れて行く。帰途、四国の金毘羅さんに立ち寄ります。日記に書きます。
「百何段かの石段を上る母の姿に老いの見ゆるを見て悲しくなった」
 もっと大切にしなくては。思った矢先に読んだのが、夢二の「母」。
 「〽ふるさとの山のあけくれ みどりのかどにたちぬれて いつまでもわれまちたもう 母はかなしも」
いい詩ですね。これに曲を付けて翌年、発表します。
 夢二とご当地とは小粋な縁がある。本荘出身の作家山田順子(ゆきこ)の小説『流るるままに』の装幀を担当。これが縁で恋仲になり、一時、一緒に暮らします。本荘の図書館にこの本があります。順子の顔の輪郭をデザインしたおしゃれな装幀。一般の図書館には置いてない稀覯本です。

【三木露風】(1889~1964)演目:「朝」

 白秋と並んで「白露時代」を築き、詩壇の双璧を成した。「赤とんぼ」(〽夕焼け小焼けの赤とんぼ)は、今も童謡の人気ナンバーワン。
露風とのつきあいは、白秋よりはるかに早い。明治42年、20歳で出した2番目の詩集「廃園」には、2版以降、冒頭に耕輔が作曲した楽譜、巻末に耕輔の評論が掲載。口語体と文語体の違いや、抒情詩と音楽、詩人と作曲家の関係など、詩論や文学論、音楽論を真正面から論じています。
 2人はともに学究肌。文章が理屈っぽいのが玉に瑕。耕輔は反省して評論の文末でエクスキューズしています。

三木露風

 「又してもよしなき議論と相成候。百の議論も何かせん、一編の創作こそ宝なり」
露風は32歳から4年間、夫婦一緒に北海道・渡島当別の男子トラピスト修道院で暮らし、文学を教える。洗礼を受け、クリスチャンに。新しい詩集を出し、自分が信頼した作曲家ということでしょう。小松耕輔、山田耕筰、本居長与、それにタルシス修道士の計4人に作曲を依頼。耕輔が作った曲のひとつが「朝」です。「〽霧はれてゆく遠近(おちこち)に 黄金の村はあからみぬ」。修道院の村の朝の情景のひとコマを、見事に切り取った。
 露風の碑が矢島町にあります。「ふるさとの」に曲を付けた斎藤佳三の歌碑です。

【西條八十】(1892~1970)演目:「冬の夜」

西條八十

 露風の一番弟子。本日の「冬の夜」(〽凩の音さえ絶えし冬の夜を 二人してあるしめやかさ)は大正11年(1922)の作です。フランス留学中の小松耕輔は翌年の大正12年に帰国しますから、それから曲を付けたのでしょう。その翌年、入れ替わるように西條八十がフランス留学へ旅立ちます。
西條は歌謡曲の作詞の大御所として知られるが、別の顔も。むしろ、こちらが本業。早稲田大学でフランス文学を教える学者。音楽と文学、ジャンルは違うが、同じフランス流派。早くから親近感がわいた。
帰国した西條は耕輔に、寵愛する長女・嫩子(ふたばこ)、後の童話作家ですが、彼女のピアノのレッスンを頼む。週2回のレッスンが5年間続きます。

 耕輔は大震災の年に「帝都復興の歌」を作曲。昭和5年(1930)、東京市が震災7周年で作る「帝都復興祝歌」を作詞したのが西條八十です。国民音楽協会理事長の要職にあった耕輔が推薦したと思われます。
 大震災を機に、西條八十は大衆に愛される歌謡曲の作詞に重点を移すが、奔放な歌詞が、当局からにらまれて放送禁止になったりする。そんな中でも、耕輔は「西條の作品には都会詩人の風貌がある」と高く評価し続けた。5人の詩人の中で、西條八十だけが、東京生まれの東京育ちです。

《信頼感と敬意》
 5人の詩人との関係に共通するのは、彼らに注ぐ眼差しの優しさと温かさ。多士済々の人材を輩出した大正ロマンの詩壇を、耕輔は「百花爛漫たる光景だった」と振り返る。若き才能を応援しようとの気遣いと心遣いが、文章の端々に見て取れます。
 逆に、5人の詩人たちは、他の作曲家とはひと味違う信頼感や尊敬の念を持って接している。音楽はもとより、古今東西の文学や歴史にも通じている当代一流の知識人、文化人、教養人として見ている。

 耕輔は音楽著作権の確立に奔走して著作権協会の基礎を作り、国民音楽協会を立ち上げて音楽コンクールを始める。プロの音楽集団としてのオーケストラも支援、学校での音楽教育にも力を注ぐ。それやこれやの行動力と指導力、力量と才覚。それを5人の詩人たちも見ていた。見ていたが故の信頼感であり、尊敬の念。これが当時の文壇や楽壇における小松耕輔の立ち位置だった。

<2>ふるさと、時代、蒔(ま)いた種
旧玉米村の周辺図

《自立自存の気風》
 生まれ育ったのは東由利の玉米村。「玉の米」と書いて「とうまい」。ルーツはロマンあふれる伝説の世界、「由利十二頭」です。
 はるか昔、信州信濃の佐久から十二の武士団が長躯、やって来る。外から来た武士が土着して切り開いた城下町兼農村集落ですから、たくまずして自立自存、独立不羈の気風や気質が最初から根付いている。
 そんな硬質な精神風土を苗床に、耕輔は多感な少年期を送る。土地柄が努力と辛抱の人を育て上げた。

《高揚した時代の空気》
 小松耕輔の人格形成にもうひとつ見逃せないのが、明治という時代性。耕輔が生まれたのは明治17年(1884)。その10年後の明治27年(1894)に日清戦争、さらに10年後の明治37年(1904)に日露戦争です。欧米に追い付け、追い越せ。高揚した時代の空気が東北の寒村へ。
 「明日は今日より良くなる」「来年は今年よりもっと良くなるはずだ」との未来肯定型の楽観主義が、耕輔の積極的で前向きな考え方に大きく影響した。自伝で「日本は上り坂のいい時代にあった」と振り返っています。
 独立心に富んだ土地柄と前向きな時代性、それに耕輔自身の天与の才。土地柄と時代と才能。この3つが歯車のようにうまくかみ合って、不世出の音楽家を作り上げ、育て上げた。

《四反田論文にすべて》
 では、小松耕輔とはどういう音楽家なのか? 由利本荘市が作った「小松耕輔WEB音楽堂」を読んで頂きたい。四(し)反田(たんだ)素(もと)幸(ゆき)先生の論文「小松耕輔の業績」にすべて書いてある。四反田論文に出会わなければ、評伝なんて書けなかった。そのくらいお世話になった。ぜひ熟読玩味を。
 小松耕輔の音楽家としての足跡やフランス流派に舵を切る経緯、今日の音楽文化に残した実績の数々。これらを丁寧にたどった後で、論文はこう締めくくられます。
「小松の(音楽家としての)出発点は作曲であったが、彼の偉大な所は関心をそこだけに限定せず、生涯に渡り、広い視野を持って社会的活動を続け、蒔いた種を育てて行ったことだと思う。現在の日本の音楽文化の隆盛を考えると、その功績は誠に大きい」
 簡にして要。音楽家は文章も手練れ。耕輔も名文家でした。
 小松耕輔は作曲家であるのはもちろん、作詞家であり、教育者であり、評論家であり、歴史家であり、音楽コンクールや日本音楽著作権協会を立ち上げた改革の旗振り役。楽壇のオールラウンドプレーヤーです。時代と社会における音楽家の存在意義の確立に大きく貢献しました。

《小松文庫》
 東京・上野に上野学園大学があります。ピアニスト辻井伸行さんの母校です。2017年の秋、訪れる機会がありました。
 14Fの図書館の一角に「小松文庫」。1300曲の自筆楽譜、研究ノートや翻訳書、書簡類、蔵書等、ざっと3千点の資料が、整理、分類され、保管されている。元学長の船山信子先生は耕輔を「音楽の求道者」「教養ある音楽文化人」と評しました。

上野学園大学の「小松文庫」
(2017年9月20日撮影)
小松義典会長(左)から小松家の家系図の
説明を受ける内山茂子さん
(2021年11月21日)

《教え子のピアノ》
 「教育者」ということで言えば、東京女子高等師範(現お茶の水女子大)の最後の教え子・内山茂子さんが、昨年(2023年)12月7日、101歳の天寿を全うされました。本日、この会場に兵庫県丹波篠山市で内山さんの世話を続けて来られた原未夏(みか)さんがいらしてます。「小松耕輔の教え子が丹波篠山に健在です」と顕彰会に連絡してくれたのが、原さんでした。これを受けて2021年秋、小松義典先生が内山さんを訪ねて対談しています。
 「みくまり」という原さんの観光休憩所には、歳月になめされたドイツ製のピアノが、置いてあります。内山さんの父親は昔、東京の病院に勤務。病気した苦学生耕輔を無償で治療し、ピアノはその恩返しにと95年前、耕輔から内山家へ。それが縁で、当時まだ幼稚園児だった茂子さんは音楽家を目指すようになり、耕輔のいる東京女高師へ進学します。卒業後は郷里で高校の音楽教師を務める傍ら、ソプラノ歌手として活躍しました。

 関西へお出かけの際にはぜひ、丹波篠山へ。このピアノに触れて、小松耕輔の情と温もりと人生の重みを感じて頂きたい。丹波篠山との交流が始まり、ピアノの物語が語り伝えられ、耕輔が蒔いた種がまたひとつ、花開いていく。そんな嬉しい予感が私にはします。(※原さんのスピーチを動画でご覧ください)

原未夏さん
耕輔が贈ったピアノ
円内が主任教授の小松耕輔、新入生の内山茂子さん
<3>友の絆、家族の絆

《楽団の三大酒豪》
 小松耕輔の自伝を読んでほっとさせられるのは、こよなく酒を愛した粋人だったということです。エッセーに書いています。
 「郷里の秋田県は、米どころであると同時に、銘酒どころでもあって、酒のうまいことでは有名である。しかも、爛漫とか両関のような美酒は、生まれ故郷にすぐ近い湯沢で造る。だから酒とは切っても切れない縁がある」(懐かしのメロディー)。
 友とのつきあいは、そのまま酒とのつきあいでもありました。楽壇や文壇の酒の会には皆出席。「楽壇の三大酒豪」の異名を欲しいままに。毎月10日に集まって飲む「十日会」、神楽坂のおでん屋で飲む「のもう会」。浅酌低唱の粋人は座持ちがいい。
 傑作なのが「光の会」です。関東大震災の翌年、1924年(大正13)11月15日、神田の寶(たから)亭で開かれています。自伝に綴ります。
 「禿げ上がった楽壇のお歴々がくつわを並べて馳せ参じ、浩々たるシャンデリアの下で自慢の光具合のほどを競った。厳密なる審査の結果、第一等山田源一郎氏、第二等葛原しげる氏、第三等がこの私であった」(音楽の花ひらく頃)

《恩師・山田源一郎》
 「第一等」の山田源一郎(1869~1927)は、あまたいる恩師の中で最も世話になった人。東京音楽学校の教授で、耕輔の才能をいち早く見抜いた。創刊した音楽雑誌「音楽新報」の編集者にスカウト、すべてを任せます。耕輔が文壇に人脈を広げるきっかけになりました。オペラ「羽衣」を作らせたのも山田。首席卒業した耕輔を学習院につないだのも山田です。音楽の団体や組織を一緒に立ち上げ、ともに汗をかいた。音楽の師であり、人生の師でもあった。
 「光の会」の2年後の昭和2年(1926)5月、57歳で亡くなります。山田は日本で初めての私立の音楽学校を作ります。後の「日本音楽学校」。行く末がよほど気にかかったのでしょう。息を引き取る直前、「日本音楽学校万歳」と叫んだ。

山田源一郎
葛原しげる

《盟友・葛原しげる》
 「光の会」の二等賞に入った葛原(くずはら)しげる(1886~1961)。こちらは耕輔のあまたいる友人の中で、最も心許し合った無二の親友。葛原は童謡詩人。「ぎんぎんぎらぎら夕日が赤い」の童謡「夕日」の作詞で有名ですね。耕輔と一緒に作った曲は300を超えます。
 晩年、酒を酌み交わしながら、知り合ったきっかけを思い出そうとしたが、2人とも思い出せず、「気が付いたら、あんたがそばにいた」と、互いに指さしながら呵々大笑した。

《今生の別れ》
 出身地の広島県福山市には、葛原しげるが育った屋敷が保存され、資料館になっています。2年前に小松義典先生とご一緒しましたが、小松耕輔の資料が展示され、葛原とのツーショットの写真もありました。
 昭和36年11月14日、耕輔の喜寿を祝う会に葛原が出席したのです。それからひと月もたたない12月7日朝、葛原は母校の東京教育大学で倒れて亡くなります。享年75歳。2人は最後の最後まで友達づきあいを続けた。亡くなる前日と前々日、一緒に仕事しています。コロンビアレコードで童謡コンクールの選考委員を務めたのです。

葛原邸の小松耕輔展示コーナー

 耕輔が寄せた追悼文に「一緒に帰って日比谷で別れた。これが最後の別れだった」とあります。
 葛原は2人の息子を戦地で失っています。1人は東京音楽学校の卒業生で、ピアニストの守さん。耕輔の愛弟子です。葛原は耕輔と酌み交わした酒に、悲しみや無念さ、せつなさを慰められた。

《梁田貞を育てる》
 肝胆相照らす仲間に、葛原しげると並んで梁田(やなだ)貞(ただし)(1885~1959)がいます。「城ヶ島の雨」(北原白秋作詞)や「どんぐりころころ」の作曲で知られます。秋田高校の校歌も梁田の曲です。私が住む札幌出身で、拙宅のマンションからすぐの資生館小学校に銅像があります。音楽教師を37年、勤めた東京の府立一中、後の日比谷高校の教え子たちが、昭和43年5月9日に建てました。

左から小松耕輔、梁田貞、葛原しげる

 小松耕輔が最も長く音楽を研究し、作曲した仲間が、葛原しげるとこの梁田貞です。新しい時代にふさわしい童謡を世に出すべく、3人で曲作りに没頭。大正4年から7年にかけ、「大正幼年唱歌」12巻120曲を発表、その後も「大正少年唱歌」「昭和幼年唱歌「昭和少年唱歌」と続く。これが大正から昭和にかけて日本の童謡運動のさきがけに。「赤い鳥」の創刊はその後です。
 梁田を作曲家としてデビューさせたのが小松耕輔。耕輔の1歳下、実際は7か月しか違いませんが、札幌農学校や早稲田に寄り道して東京音楽学校に入学したため、学年は5年後輩となります。

梁田貞の銅像(札幌市の資生館小学校)

《「墨田川」でデビュー》
 音楽学校時代の夏休み、梁田貞は札幌へ帰省。親戚の女性が、実家でさめざめと泣いています。離縁されて引き離された子供が、海でおぼれ死んだ。哀れを催した梁田は、母親を慰め、子供の冥福を祈るために曲を作ります。
 明治43年(1911)の夏休み明け、楽譜を手に、先輩で学習院助教授の小松耕輔を自宅に訪ねた。
 小松耕輔の述懐によると…。
「子を失った母親の悲しみを歌ったのだから、そのつもりで歌詞を付けてほしいと、梁田貞君に言われた。私はすぐに、謡曲の『墨田川』を思い出した」

 この辺が耕輔の博識と教養。平安時代、京都にいた貴族の子供「梅若丸」がさらわれます。母親が関東まで捜しに来るものの、梅若は隅田川のほとりで既に病死していた。号泣する母親の前に、梅若のまぼろしが現れるも、すぐに消えてしまいます。
 この物語を題材にして「いま見しはまぼろしか」などと、曲想とぴったりの詞を付け、曲名を「墨田川」とします。発表されると大変な評判を呼んで、作曲家・梁田貞の名声が世間に挙がります。

《葬儀ひっそりと》
 しかし、根が遠慮がちで引っ込み思案の梁田は、とんと作曲しようとしません。才能を惜しんだ小松耕輔が、葛原との仲間に引き込んだのが、新時代の童謡を作る会。葛原が作った詩を梁田に作曲させます。こうして、梁田は作曲家 としてのキャリアを積んだのです。
 梁田貞の生活はつましい。さしたる家具もなく、ピアノはおんぼろ。小松と葛原が一緒に飲んだ後、電気店で電気スタンドと電気ストーブを買い求め、送り届けた事が、耕輔の昭和2年1月9日の日記に載っています。

東京・日比谷高校の合唱祭では今も「梁田賞」がある。円内は教え子が描いた梁田貞の肖像画

 梁田貞は戦後の食糧難の時代、闇米を一切、拒否して、配給米だけで暮らしました。教育者たる者、教え子に面目が立たないというわけです。ために、夫婦とも栄養失調に陥り、入院。妻は昭和31年8月、貞は3年後の昭和34年5月9日、亡くなります。享年73。
 日比谷高校の教え子が作った評伝の最後は、寂しい葬儀の模様がつづられています。
 「ひっそりとした自宅での葬儀には、小松耕輔氏、北原白秋未亡人、お弟子の奥田良三氏など、僅かの人が来られて、しんみりと追憶の話を交わし合った」(音楽の師 梁田貞)
梁田の教え子たちは、小松耕輔への感謝の言葉も忘れません。
 「(梁田が作曲家として大成したのは)梁田先生の才能と人格を高く評価し、尻を叩いて能力を引き出してくれた小松耕輔氏の力」
 日比谷高校では梁田をしのんで毎年、合唱祭を開き、特別賞として「梁田賞」がある。今年は6月21日に開かれています。

1951年発行の森鴎外の切手
1950年発行の夏目漱石の切手

《人脈に鷗外、漱石》
 梁田が好例だが、耕輔には人の才能を見抜く眼力と、育てる度量と力量があった。教養と品格と優しさがあって、明るい。人を引き付ける不思議な吸引力と魅力は、小松耕輔の人徳。だから人が集まる。人の輪が十重二十重と広がる。輪の中には明治の2大文豪も。
 森鴎外は耕輔のオペラ「羽衣」に序文を寄せ、フランス留学前には、自ら発起人を買って出て送別音楽会を開催している。帝国劇場が満席に。賛助会員には、明々後日(2024年7月3日)から1万円札の顔になる渋沢栄一も。華麗な人脈の一端がここにも。
 片や、夏目漱石。一高、東大の教授から朝日新聞に転じて文芸欄を創設し、小松耕輔を起用します。明治43年(1910)12月8日付「古典音楽と近代音楽」、明治44年2月23日付「帝国劇場と演劇」。その後も朝日に寄稿。滝井敬子著「夏目漱石とクラシック音楽」(2018年刊)では、「夏目漱石も小松耕輔という若き才人には注目していたのである」と書いています。
 「療養中だった夏目漱石の訃が新聞で伝えられた。漱石を失って文壇は寂しい」(大正7年12月10日付の日記)

《昭和天皇とご親交》
 人脈と言うと畏れ多いが、昭和天皇とのご親交も生涯、続く。学習院初等科で6年教え、その後も宮中催事のたびに皇居へ、各地の御用邸へとお召しになっている。今の上皇さまにも、皇太子時代の昭和21年から5年間、音楽をご進講。天皇家2代にご進講した学者は珍しい。

【家族の絆】
母:小松トミと父:小松平蔵

 家族に触れて締めます。
 小松耕輔は生涯、ふた親への恩義を忘れなかった。午前様の朝には、母親にこんこんと説教されます。「母が亡くなるまで続いた」と日記に書いています。子を思う母心は、子供が幾つになっても変わりません。
 父親の平蔵は玉米の村長や郡会議員を務めた庄屋の主。それなりに資産や蓄えはあった。しかし、東京の学校に進学させたのは、耕輔だけではなかった。4人の弟すべてを東京へ。今の東京芸術大学、東京大学、東京工業大学、慶応大学。うち3人は兄耕輔の背中を見て、同じ音楽家に。これが「小松音楽兄弟」です。お手元のプログラムの解説をご参照ください。

【父親は朝鮮へ】
 仕送りする教育費の捻出は限界を超えた。平蔵は家屋敷や田畑など、玉米の資産をすべて処分して教育資金をつくり、自身は日韓併合直後の朝鮮へ。農業開発の仕事を見つけて、日本の留守家族に仕送りします。秋田に残されたトミや5人の弟妹は、東京の耕輔宅に身を寄せる。
 平蔵は10年後、ソウルで客死します。享年68歳。葬儀を仕切ったのが、養子となって北海道岩内町で小松家の分家を起こした5男で、耕輔の弟千年(つね)太郎(たろう)。平蔵が朝鮮に呼んで仕事を手伝わせていた。
耕輔は後年、千年太郎の労をねぎらって、浅草オペラの一座を引き連れ、岩内で公演しています。
 平蔵が亡くなった時、耕輔はフランス留学中。万感の思いを挽歌に込めます。
「父と子のえにし薄しと思わねど いまわの水をとらぬ悲しさ」
 耕輔は昭和41年2月3日、81年の生涯を終える。元旦の日記に、こう書いています。
「初春や まず思うこと 親の恩」。ふた親への恩義を生涯、忘れなかった。

《ただ学べ、ただ働け》
 家族の絆、友との絆、音楽の絆。小松耕輔はこれらを命がけで守り通して、音楽家としての人生を全うした。自らを叱咤激励して日記に書きます。
 「目の病は如何ともし難いが、天よ僕を滅ぼすな、僕に天職をなさしめよ」
 返す刀で自身に覚悟を求めます。
 「耕輔よ、すべてを投げ打って創作に没頭すべし。これ汝の生くる道なり」「生きてる限り、ただ学べ、ただ働け、ただ前を向け」「明日あると思うなかれ。無常は迅速なり」(音楽の花ひらく頃)

小松耕輔音楽兄弟顕彰室を見学する子どもたち(東由利)

 この究極のストイシズム、自分への厳しさ。ひとつ道を究めんとした人間の覚悟、使命感、痛々しいまでの潔さ。読む者の胸を打ちます。
結局、小松耕輔という人は、音楽への感謝と使命感を胸に、小松耕輔にしか出来ない生き方、生き様を、終生貫き通した。一分の隙もなく、一寸の迷いもなく。だから、小松耕輔81年の人生には、81年の春夏秋冬には華があります。力強さがあって、優しさがあります。

 素晴らしい音楽家にして、人生の達人。洋楽の伝道師・小松耕輔。今度は皆さんが「小松耕輔の伝道師」となって、人となりや魅力、功績の数々を次の世代に語り伝え、歌いつないで行く。これだけの宝がここにある。使わない手はない。勿体ない。幸い、行政もしっかり後押ししてくれています。
 小松耕輔の「耕」は「耕す」と書きます。小松耕輔を語るという事は、地域の文化を耕すという事、私たちの心を耕し、ふるさとの未来を耕すという事。皆さんのご健闘、切にお祈り申し上げます。
                                      了

<小松家の人々>

父・平蔵(へいぞう)(1853~1922)
 秋田県増田村(現横手市)の旧家・東海林家の生まれ。縁戚の小松家8代目・松三郎の両親が早くに亡くなったため、養父として小松家へ。玉米村長や郡会議員を務め、1911年頃、朝鮮へ

母・トミ(1860~1936)
 矢島町土屋家の長女。16歳で小松家へ。夫とともに旧本荘藩の国学者・幡江晃に短歌と漢学を学ぶ

長男・耕三(こうぞう)(1877~1877)
 生後2か月で夭折。次に生まれた耕輔が、事実上の長男となる

次男・耕(こう)輔(すけ)(1884~1966)
 東京音楽学校(現東京芸術大学)を首席で卒業。在学中に創作オペラ「羽衣」を発表。学習院で昭和天皇に音楽を教える。フランス留学を経て東京女子高等師範(現お茶の水女子大)教授。音楽コンクールや日本音楽著作権協会の生みの親

3男・翠(みどり)(1887~1970)
 東京高等工業学校(現東京工大)卒。商社マンとして、長く米国に勤務した。当時を述懐した録音テープが残っている

4男・三樹三(みきぞう)(1890~1921)
 指揮者、バイオリニスト。大正初期の浅草オペラ座で活躍、オペラの振興に尽くす。耕輔の外遊中に死去。妻は舞踏家の澤モリノ

5男・千年(つね)太郎(たろう)(1892~1937)
 義理の叔父の三吉に養子入りして、北海道の岩内へ。地元の村役場に勤務。父平蔵がいた朝鮮で稲作を指導し、父の最期を看取る
長女・チヨ(1893~  )
 兄弟たちとともに東京の耕輔宅で暮らす。フランス留学を終えた耕輔を横浜港に出迎えている。建築家と結婚

6男・平五郎(へいごろう)(1896~1953)
 指揮者、作曲家。慶応大卒。玉米に戦時疎開して村の助役を務め、「ハタハタ音頭」「由利小唄」「舘合小学校校歌」などを作曲

7男・清(きよし)(1899~1975)
 東京音楽学校から東大へ。東大、東京芸大で教授。仏文学者にして音楽家。日本作詞会長、ユネスコ国内委員、日本音楽学会理事 

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