録音テープ その3
【明清楽の思い出】
それでは今日はいろいろ、音楽のことについてお話をしましょう。
私の生まれたのは明治17年12月14日であります。生まれた日は義士の討ち入りの日に当た
るわけであります。
玉米の小学校に入った。その学校は3階建ての小学校で、当時としては珍しかった。小学校で3階なんてなかったから。
そこで教育を受けた。しかし、音楽の教育は、あの当時はどこでもそうだが、非常に簡単なものであった。学校の中にはオルガンもなかった時代なんですね。今日の音楽教育という点から見ると、非常に進歩していなかった。
当時、学校以外の音楽はどうであったかというと、家庭においては明みんしん清楽がくが非常に流行した。
シナの音楽ですね。明みんと清しん。日本中に盛んに流行した。
楽器は月げっきん琴。今は知る人もいないでしょう。それと明みんてき笛。普通の笛だが、上のところに穴がもうひとつ。その上に竹ちく紙し 、竹の中にある薄い紙ですね。それを穴に貼って吹くんです。そういう楽器だった。非常に面白い音を出すんです。
月琴は丸い木製の胴が付いていて、4本の弦が張ってある。柱じ があって、「柱」という字ですね。
音階を出すための柱じ があって、横に付けてあって、そこを押すと音が出る。三味線はすぐに柱でしょう、つまり棹さおがあってすぐに音が出る。
月琴は横にコマが出来て、それで演奏する。シナの音楽の譜を使った。「ザン、ツェイ、コン」などと、シナの文字を使った。当時の明楽の譜です。これが家庭に流行した。
私の母はあれが好きで、月琴をよくやっていましたよ。それを私は聞いていたもんだから、明笛を盛んにやった。家庭はそんな具合だった。
【紙腔琴と汽笛】
それからもうひとつ、学校音楽のほかに「紙し 腔こう琴きん」という
ものがあった。
(注・話が飛ぶ)
私の部落から行くには、横手を通って、そこからずーっと長い事、車で、人力で黒沢尻駅に行ったんです。
朝早く(家を)出ると、夕方、黒沢尻に着くんですね。そうしてひと晩泊まって、それから汽車に乗る。あくる日朝早くです。汽車ってものを見たことはない。しばらく待ってい
ると、遠くの方から雪の中を、2月でしたからね、雪の中を、線路の向こうから、真っ黒いものが走って来るんだ。それがつまり、蒸気機関車。機関車に引っ張られて列車が来るわけ
ですね。
(汽笛は)風琴の仕掛けですよ。つまりオルガンだ。オルガンの仕掛けを手でぐるぐる回すと、下から風が出て来る。箱から風が出て来ます。弁が仕掛けてある。リードです。リードオルガンの仕掛けになる。リードに風が当たって音が出る。オルガンの仕掛けを手で回して風を送って、弁、つまりリードによって音が出る。こういう仕掛けなんです。
丸いというか、長いというか、相当に硬い紙がありましてね。譜の穴が付いている。くるくる回すうちに、長い紙もくるくる回る。同時に下から風が入って来る。リードに風が当たって紙の穴から音が出る。これがつまり、紙し 腔こう琴きん。民間で流行した。今ではありませんが、そういう楽器だったんだ。
それには唱歌とか、いろんな俗楽ですね、みんな入っている。これが大変、面白かったんだ。
当時、その楽器を持っているのは老方の小松亮太郎。県会議員の人で、文化人でもあった。その子供にもり太郎さんという人がいた。(この地方で)紙腔琴を初めて持っていた。うらやましくて、しょっちゅう、弾かせてもらっていた。
(12分)