録音テープ その2

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【芸術と音楽】
 <小松耕輔> 音楽というものは私、ほかの図画とかと同じもの、という形で見てる。特に、音楽が非常に優れて、絵とかほかの芸術より音楽がなかったら困るなどと、特に音楽を見ているわけではない。つまり、芸術の一部分として、みんな平等に見ているんだね。特に音楽が特別に芸術的というわけではないんだ。
 <聞き手> 教育全般の話として音楽教育とは?
 <小松耕輔> 全人的教育という意味ではね、戦後の方が非常にバランスが取れている。大事に考えているね。戦前の教育は、国によって違う。ドイツなどは「音楽は人間に必ず要る」という風に尊重しているわけだね。芸術教育の一番の教育と考えている。
 芸術の中には、例えば絵もあるし、詩もあるし、いろいろあるが、上位するものは音楽だと考えている。ドイツより音楽を尊重する国はそんなにない。「第一に音楽でなければ」とドイツほどには考えていない。
 戦前から戦後を考えてみると、全人的教育は高まっている。

 もともと、日本の学校教育の中には、他のヨーロッパやアメリカのように、音楽を尊重した歴史がない。孔子は楽を礼儀として教えたが、音楽を尊ぶなどとは教えなかったもの。
【音楽教育はアメリカから】
 <聞き手> 唱歌教育がアメリカから来たというのは本当ですか?
 <小松耕輔> 初めはアメリカから日本に入った。万事そうで、みんなアメリカを通してだ。当時はアメリカの教育、教科書をそのまま持って来て教えた。英語だけではない。例えば地理にしても、直訳した原書をそのまま学生に教えた。英語は向こうのナショナルリーダーをそのまま教えた。医学でも何でも、そのまま持ち込んで教えた。
 <聞き手> 何故、アメリカなんですか?
 <小松耕輔> 何故、アメリカの教育を持ち込んだのかは、私にも分からないところがある。ただ、こういうことは言える

 アメリカは元々、ヨーロッパの植民地でしょう? だから、国が盛んになって教育に力をいれなきゃならんと考えた時の手本は、みんなヨーロッパだった。ヨーロッパから持ち込んだ。
 その状態が当時の日本なんだ。(事情が似ていたから)ヨーロッパよりアメリカの方がよく分かる。その型をそのまま(踏襲して)日本に持ち込んで教えた。アメリカなるものが一番、手本になった。
 しかし、第2の段階では、アメリカをよして、ドイツを土台にしてヨーロッパを(取り入れた)。最初はアメリカが手っ取り早かったんだが、10 年たち、20 年たつと、どうもアメリカだけじゃいかん。アメリカが手本にしたヨーロッパに学ぶべきとなった。
 ヨーロッパ的教育となれば、当時、一番の勢力だったのがドイツ。かくしてアメリカ文化は光沢を失った。アメリカ式の教育が光を失って、アメリカは単にドルの国になった。教育の手本はヨーロッパ。軍隊なら陸軍はフランス。
 とはいえ、教育だけ考えたら、アメリカを持って来るのがいい。事実、当時の留学生はみんなアメリカに行ったものだ。教育的仕事はアメリカに行って、アメリカの師範学校や何々大学とかへ行った。当時の学生や教育家はみんなそうだった。

【四ヨ七ナ抜き音階】
 <聞き手> 音楽教育で言うと、半音が日本人にはまずかった?
 <小松耕輔> 日本の音階は「五声音階」。五つしかなかった。
 当時は「ドレミ」でなかった。「ヒフミヨイムナ」と教えたものだ。♪ヒフミヨイムナヒ、ヒナムイヨミフヒ(ドレミファの節を付けて口ずさむ)。数字だね。「君が代」だと、「♪フヒフミイミフ ミイムイ」となる。
 当初の「四ヨ 七ナ 抜き音階」(主音のドから4つ目のファと7つ目のシがない)は、元はと言えば雅楽から来た。「呂りょ旋せん法ぽう」と言う。「四七抜き」だが、初めから日本にあったものではない。シナの雅楽から日本に入って来て五音階になった。つまり、「四七抜き」だ。当時はみんな、半音がない。

 <聞き手> 番ばん楽がくとはどういうものですか?
 <小松耕輔> ほかはどうか知りませんが、ここの番楽は非常に面白い。雅楽がなまってきて、だんだん民間に伝わった。そして、神社に奉納する音楽になった。お祭りに出した。シナから来た雅楽がなまって番楽になった。
 雅楽から民謡か何かとして入って来たのが「黒田節」。あれは雅楽だね。「♪さぁけは~」となって来た。元々は雅楽。
 一方、舞い、舞楽の方はなまって形が崩れてしまった。番楽がそうだ。
 「番楽」という文字は、どういう意味か私は分からないんだが、あの当時ね、日本の一般の民謡にも、ああいうものがたくさん、入って来て。シナとか、朝鮮とかから入って来たという意味で、「蛮(?)楽」と言ったのではないか? 「蛮人の音楽」という意味でね。
                                   (19分14秒)

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