録音テープ その1

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【子供時代の音楽環境】
 新楽器が入ってきた。私も盛んに聞いたりしておった。私は純音楽が好きであった。どうしても、これは音楽を研究しなきゃならんという考えを持って、両親の許可を得まして、いよいよ音楽の研究に行くことになった。
 ところが、玉とう米まいの学校ですね。尋常小学校でしたからね。(地元には)それしか無かったものですから、矢島の高等小学校へ行った。そこで初めて、本当の音楽教育と言うものを受けたわけです。
 矢島の学校には立派なオルガンがありましてね。音楽の時間にはしょっちゅう、そこで勉強できる。今ある専科の先生ではないけれども、非常に音楽に熱心な先生がおりまして、しょっちゅう、オルガンを弾いてくれた。そんな関係で、そこを卒業した。
 それから、「これはどうしても東京へ行かんならんし、音楽学校に行くしかほかに方法はない。どうしても官立の音楽学校へ行ってやろう」という考えを持った。
 そうして明治34 年ですよ。ちょうど2月。当時は玉米の舘たてあい合という字あざ。舘合から汽車といっても、今の奥羽線はまだない。ほかのバスとか、そういうものも一切、ないんだ。唯一の交通機関というものは人じんりき力ですね、人力。その人力もですね、当時は鉄道は東北本線。それしかない。(東北本線の最寄り駅である岩手県・黒沢尻駅まで人力を走らせる)
 月偏に空という字があるでしょう。紙し 腔こう琴きんという名前の新楽器があって、東京の十字屋という楽器店が売り出したんだ。
 これはちょっと説明しないと分からん。横が1寸5尺、縦が1尺ほどの箱だ。中を見ると楽譜を書いた木がある。下の方にハンドルががあって、手で回す機械。右手でハンドルをぐるぐる回すと、ひとりでに下から風が出て来る。
 駅にそれ(蒸気機関車)は止まった。同時に大きな声を出して「ワン」。汽笛ですよ、それがね。びっくりして、「汽車というのは大したもんだ」と思って驚いた。(汽笛と紙腔琴の仕組みが似ているという趣旨か?)
 汽車に乗って、その晩に上野に着くわけですね。初めて、東京の土を踏んだ。

【東京音楽学校の思い出】
 それから早速、音楽学校の入学試験の準備を始めた。当時は神田に予備校みたいなのがあ
る。いろんな学校のね。英語とか漢読、歴史、数学。相当難しい程度の準備をしなければな
らん。
 当時の東京音楽学校は、一番下に「選科」がある。「選択」の「選」。2年くらい、普通やる。その上に「予科」。「予め」という字だね。これが1年。そのほかに、3年の学科「本科」。それで卒業だ。
 まずは選科に入って予科の準備を始める。幸いにパスした。
 よほど前から目が悪かったものですからね。学校の体格試験の時でも、非常に困る。眼の視力試験というものがある。視力が少し、悪かったもんだから。視力表というのがあるでしょう。あれをみんな覚えたんだ。三角や四角がある。(形の違いを)みんな覚えた。

先生が向こうで「どうだ、これが見えるか?」
 「はい、見えます」
 「どっちの方を向いているか」と先生が聞くんだ。「一番上の右の方だよ」
 「それは見えとります」
 「これはどうだ?」と先生が聞く。下の小さいやつ。
 「よく見えます」
 それで「はいパス」と言うんだ。とうとう、パスしちゃった。
 そういうわけでね。大変、辛かったんだ。

【学習院へ】
 それから、どんどん勉強やって。明治39年に卒業したんだ。当時は6月が卒業の時期であ
って、今とちょっと違います。今はたいてい、4月に学期が始まって、3月でおしまい。ところが、当時は6月で学校が済んで、それから長いお休みがあって、9月から始め、卒業は6月。
 それをパスして、今度は研究科。これは2年あるんだ。3年やることも出来た。それに入った。
 ちょうどその時に、学習院の方から話があって、「先生が要るから来たらどうか?」と。そこで私は先生になることになった。
 毎日、学校へ通勤した。その当時の院長が、乃木大将であった。1年たって次の新学期に今の天皇陛下が学習院にご入学になった。私が音楽を担当することになって、ご卒業までお世話出来た。非常に名誉なことでした。

【欧州留学】
 そのうち、今度は外国留学ということになって、外国へ行ったんです。大正9年の9月です。
 飛行機なんてない時代。船でインド洋から地中海を経てマルセイユへ。ひと月半かかった。今なら飛行機で30時間ほどですか? パリまで。当時はマルセイユから汽車でパリへ行って、そこでようやく落ち着いた。
 幸いに国立の音楽学校で聴講することになった。作曲と作曲理論を勉強した。
 合間にイタリーとか、英国、ドイツ、それから方々の国へ行って、見学したり、調査したり。日本から出る時に、いろいろな役目を持たされた。学校で研究、勉強するだけでなく、実際の音楽の社会的状態を調査して来いということで。
 学習院から(の依頼)は貴族音楽(の調査)が主でした。内務省からは「社会音楽の研究をやって来い」と。みんな嘱託ということで任命された。文部省からは「一般教育音楽の調査、研究を」との依頼を受けた。これも嘱託ですね。
 だから、学校以外でのいろんな調査が必要になってきた。学校に少しでも休みがあると、それを利用しては方々の国へ行って、その状態を研究してきた。パリの音楽学校におって勉強するほかに、社会的ないろんなこと、簡単に言うと、音楽全般のことをね、調査しなきゃならんという状態であった。そうして、(足掛け)4年、調査をして勉強してきた。

【アメリカモデル】
 その帰りにアメリカへ行った。滞在は短かったが、大体の都、ニューヨーク、ボストンなどに行って調査した。これがまた、ヨーロッパとは違った、ひとつのやり方をやっておった、米国はね。
 一般の社会音楽ということでは、非常に得るところがあった。一体、アメリカという国はみんな新しい国でしょう。いわば、ヨーロッパの植民地ですから。新しい時代の国だから、みんなヨーロッパのものを吸収してきて、いろいろなものをやったわけでしょう。そして、本当のアメリカの教育というものを盛んにしたんだ。
 それを見ると、音楽だけでも参考になることが多い。日本に持って行くには、社会的音楽の程度では、アメリカのいろんなやり方は必要だと感じたんですね。その点では大変、参考になりました。
 私はその前に、「日本の音楽教育というものはみんな、アメリカから来たものなんだ」ということを学んでいた。なぜかというと、いわゆるヨーロッパのやり方をまず、アメリカで研究して、いろんなヨーロッパの音楽をアメリカから持って来てやったもんですからね。それがつまり、明治5年の教育改革ということに。音楽の方も研究していかねばならないということになって、日本からアメリカへ行ったのが、伊沢修二という先生。この人が、日本における音楽教育の元祖なんだ。
 この人が、アメリカに行って音楽を習い、と同時に、音楽教育というものの研究をやったわけだ。日本に帰って来て、音楽教育の必要性を当時の人たちに話した。文部省に意見書を出した。「日本でも音楽教育を盛んにやらなければだめだ。日本は非常に遅れている」と、文部省に建白書を出した。
 これが通って、音楽取とり調しらべ所しょが文部省の中に出来た。それによって出来たのが、今の東京音楽学校なんです。従って、東京音楽学校というものは一番最初、アメリカ的音楽のやり方を伊沢修二先生が持って来てやったものです。
 そういう意味で、アメリカ音楽と日本の音楽教育は、非常に密接な関係を持った。
そういうことをちゃんと知っておりましたから、(アメリカでは)よほど、いろんなものを見て来なければと思って帰って来た。

【社会音楽の底上げを】
 東京に帰っていろんな人に話をし、文部省にも具申した。一番考えたのは、社会音楽をまず盛んにしなければだめだということ。いくら学校教育をやったって知れたものなんだ、人間の数というものは。全部に行き渡るなんてない。学校の教育だけではまだダメだ。まず、社会的音楽を盛んにしなければならん。
 国民全体が音楽というものに対しての理解を高めることが大事。と同時に、今度は音楽というものを実際に感じることが出来ること。理屈じゃないんだ、音楽というものは。
 まず第一に、音楽そのものを理解すること。それから、音楽を好きになること。「音楽というものはなるほど、いいもんだ」ということが分かって来なければ、誰も本当の音楽というものを知ることは出来ない。ヨーロッパ全体、アメリカ全体で社会的音楽が非常に盛んになっている。「日本でも」と考えた。
 日本の富士山は日本一の名山であり、一番高い山である。だけど、名山というものはどういう位置にあるのか。考えてみるとあの名山を成しているのは、あのすそ野です。非常に広大なすそ野があるでしょう? それがだんだん、高まって来て、最後に頂点に達するわけです。
 ああいう名山が出来るには、非常に長い、広いすそ野が必要だ。音楽で言えば、そのすそ野こそが、一般の社会音楽なんだ。聴衆も必要、教育も必要。すそ野の上に高くなっていくのが、つまりサミットだ。富士の頂上ですね。そこに行って、初めて作曲家も出るし、演奏家も出る。初めて音楽国というものが出来上がる。こう考えたもんだから、社会音楽というものを盛んにやった。

【コンクール】
 それには2つの方法がある。海外で見て気が付いた。
 ひとつは声楽です。声楽というのは、声の音楽。これを盛んにすることが合唱になる。合唱、コーラスですね。もうひとつは器楽でやる演奏。これが吹奏音楽。ラッパのようなものや太鼓、それから笛。一緒に合奏するのが吹奏楽。この2つが盛んにならないと、音楽の盛んな国にはなり得ない。
 文部省にも具申したんですけど、これがなかなか実行できなかった。
 これをやるのには方法がある。コンクールだ。今ではみんな知っているが、その当時はコンクールなんて文字は、誰も知らなかった。合唱でも吹奏楽でも、「コンクールの形式でやって行かなければだめだ」ということを言ったんです。盛んに演説したり、文章を書いたり、新聞にも出したり、盛んに言ったんです。しかしながら、肝心の文部省がダメなんだ。孤軍奮闘でしたね。
 そのうち、新聞に「コンクリートという会が出来るそうだ」と書いているんだ。コンクールの誤りなんです。みんな知らないんだから。大きな新聞でも「コンクリート」と書いてある。ばかな話だが、そういう時代でしたよ。
 一般にも分かって来て、合唱の方は第1回が出来た。ずいぶん長い事かかったが、今のコンクール形式でやった合唱の最初の会だ。昭和2年です。初めて合唱の会が出来た。「コンクール」じゃ、誰も分からないものだから、「競演」という名前にしたんだ。競争の「競」、「演」は演奏の演。これがつまり、西洋の「コンクール」の翻訳なんだ。それを使った。「合唱競演会」という名前を付けた。
 第1回の日本におけるコンクール形式の合唱の会。明治神宮の外苑にある日本青年館。あそこでやった。続けて今日まで来ている。今日では幸いにして全国的運動になった。日本合唱連盟というものになった。立派な効果を生んできた。全国的に日本の合唱界をリードしておる。今は非常に進歩してきた。
 もうひとつは吹奏楽。これも盛んになって、吹奏楽の連盟が出来ている。堀内敬三君がその方の仕事をやってくれている。これも非常に盛んになったもんだ。朝日新聞が後援になって、全国的に盛んになっている。
 こうして、社会音楽というものが、一般の民衆に親しくなった。社会音楽が盛んになれば、技術、作曲の側も年々、盛んになって来る。作曲も一般の人が出てきておる。演奏会も、管弦楽団が相当の数、出て来た。2、3のものは、ヨーロッパの楽団にも、一流のものとは言えないにしても、肩を並べるまでに成長している。立派な管弦楽団が出来ています。3あるいは4くらいの管弦楽団は、実に立派なものです。合唱の方は、合唱網が出来て、盛んにやっている。

【オペラ運動】
 そのほかに私がやってきた仕事では、作曲の方では、オペラの運動ですね。日本人作曲のオペラは、私が一番、古いんでしょう。私が卒業したのが明治39 年。その年に「羽衣」というオペラを作曲し、公演して発表した。第2回は明治40 年。オペラ「霊鐘」を書いた。
 当時はオペラにお金をだしてくれる人がいない。長く続けようと思ったが、出来なかった。しかし、そのあと、山田耕筰君なんかが出て来て、盛んにオペラ運動をやってくれた。今日では立派な作曲家が出て公演している。藤原義江君などが、オペラの研究をやって、だんだん進んで来ている。国立の劇場も出来た。
 いま振り返ると、我々が学生の時代と今日では、非常な進歩があります。しかし、何といっても、先進国のヨーロッパやアメリカには追従出来ていませんよ。まだまだです。
教育音楽にしても、非常によく進歩している。我々の学生時代と非常な差があります。
 そういう意味で、私は非常な希望を持って今日、毎日、毎日、楽しく暮らすことが出来る。少しでもまだ、音楽に貢献するように、骨を折っております。もう70、今年は6になります(76歳)。幸いにもまだ元気ですから、もう少し、仕事が出来ると思っております。今日はそのくらいで勘弁願います。
                                   (38分31秒)

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